れてあつた。何の氣なく行きすぎたが、私は急にその爺さんに聲がかけて見度くなつた。そして、其儘《そのまま》振返つて見ると、爺さんも丁度こちらを見やうとした所であつた。
『ア、ちよつと、お爺さん!』
 爺さんは明らかにびくりとした。が、流石に私の聲を聞いて走り出すまでにはならなかつた。返事はしなかつたが、立止つて不安さうに振返つた。
『その桃を二つ三つ賣つて呉れませんか。』
 さう言ひながら、二三歩私は歩き戻つた。
『桃かね。』
 爺さんもさう言つて、無理に笑はうとした。
『今朝、宿屋で御飯を待たずに出て來たのでおなかがすいて困るのです。それに、其處の谷で斯んなになつて……』
 袂をあげて見ると、まだしと/\と濡れてゐた。
『ハヽア、さうかね、其處の谷でかね……』
 爺さんの聲も漸く落ちついて來た。そして私が財布をとり出すと、
『二つ三つなら錢はいらねエ、たゞ上げますべえよ。』
 と齒の無い、皺深い顏で、ニコ/\と笑ひながら片手で桃を掴んで呉れた。
『いゝえ、それぢア困る……、ではこれだけ取つといて下さいな。』
 つまみ出した十錢銀貨もまだ露つぽかつた。
『うゝん、そんなにヤいらねエ、おつ
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