を置いて湧いて居る。私の好んで入つたのはその断崖の根の温泉で、入口には蓆《むしろ》が垂らしてあるばかり、板の壁はあらかた破れて湯に入りながら渓の瀬がみえてゐた。或る日の午後ぼんやりと独りで浸つてゐると次第に湯がぬるんで来た。気がつくと板壁の根の方から渓の水がひそかに流れ込んで来てゐるのである。四月の廿日前後であつたが、その日あたりから急に雪が解け始めたらしく、渓の水の濁つて来るのは解つてゐたが斯う急に増さうとは思はなかつた。呆気《あつけ》にとられて裸体のまゝ小屋の外に出てみると、赤黒く濁つた水がほんの僅かの間に全く川原を浸して流れて居る。丁度其処の対岸の木立のなかに――そのあたりにも水が流れ及んでゐた――網を提げた男が一人、あちこちと歩いてゐる。雪解を待つて鱒は上つて来るといふ事を聞いてゐたが、彼はいまそれを狙《ねら》つてゐるのらしい。やがて、また一人あらはれた。
 雪が解けそめたとは云へ、四辺《あたり》の山は勿論ツイその川岸からまだ真白に積み渡してをるのである。その雪と、濁つた激しい渓と、珍しく青めいたその日の日光とのなかに黙々として動いてゐるこの鱒とりの人たちがいかにも寂しいものに
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