く、微かに紅《あか》みが潮《さ》してゐるのがなか/\に哀れである。彼の特色の大きい黒い瞳ばかりはさして昔に變らず、すが/\しく釣竿の一端に注がれてある。重さうに彼は時々兩手でその竿を動かす。竿が動き、糸が動き、糸のさきにつながれて居る囮《おとり》の鮎《あゆ》まで銀色の水の中から影を表すことがある。いま彼のあはれな全生命は懸つてその竿の一端にあるのだ。暫く見つめて居るうち、一尾の魚が彼の鉤《はり》にかゝつたらしい。彼は忽ち姿勢を頽《くづ》して、腰から小さな手網を拔きとり、竿を撓《たわ》ませて身近く魚を引寄せ、終《つひ》に首尾よく網の中に收めて了つた。そして彼はそれを靜かに窺き込んで居る。噫《あゝ》、その無心の顏、自分は自分の瞼の急に重くなるを感じた。
 一尾を釣り得て彼は少なからず安堵《あんど》したらしく、竿をば石の間に突き立てゝおいて、岩の上に蹲踞《しやが》んだ。兩手で※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》を支へて茫然と光る瀬の水を凝視して居る。自分との間は十間と距つてゐない。けれども榎の根もとの岩蔭の自分は彼の眼には入り難《にく》い。餘程起き出でて彼を呼ばうかとも思つたが
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