なつてゐて、その頃は折々溪河へ魚釣などにも出て來ることがあつた。或日のこと、自分は我家のすぐ下の瀧のやうになつて居る長い瀬のほとりの榎の蔭で何か讀書してゐた。日は眞晝、眼前の瀬は日光を受けて銀色に光り、峽間《はざま》の風は極めて清々《すが/″\》しく吹き渡り、細《こま》かな榎の枝葉は斷えず青やかな響を立てゝそよめいてゐた。雲も無い空は峯から峯の輪郭を極めて明瞭に印して、誠に強烈な「夏の靜けさ」に滿ちた日であつた。何を讀んでゐたのであらう、定かには覺えて居らぬ。とにかくしんみり[#「しんみり」に傍点]と身も心をも打ち込んで、靜かな感興を放肆《ほしいまま》にしてゐたに相違ない。所が不圖《ふと》何ごころなく眼を書物から外すと、すぐ自分の居る對岸に一個の男が佇んで釣竿を動かして居る。注意するまでもなく自分は直ちに彼の初太郎であることを知つた。
 なるほど痩せた。特に濡れた白襦袢一枚のぴつたり[#「ぴつたり」に傍点]と身に密着《くつつ》いて、殆んど骨ばかりの人間が岩上に佇んで居るとしか見えない。多く室内にゐて珍しく出かけて來たのであらう、日に炒《い》りつけられた麥藁帽子の蔭の彼の顏は痛々しく蒼白
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