母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬《やるせ》なくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。膝を兩手で抱いて、身を反《そら》して開け放した窓さきの樹木に日光[#「日光」はママ]の流れてゐるのを拭ひもせぬ眼で見つめて居ると、母もいつしか語を止めてゐた。
自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を渡舟《わたし》で渡ると、道はやゝ長いこと上り坂になつて居る。その坂の中ほどで自分は久しぶりに傳造に出會つた。黒い眼鏡をかけて、酷《ひど》くやつれてゐたけれど、自分にはすぐ解つた。一も二もなく自分は歩み寄つて言葉をかけた。彼はもう誰だか少しも覺えが無い。見えない眼を切《しき》りに働かせて見定めようとする。
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえ[#
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