あり、私の樣に斯んな山の中で雪に埋れて暮すのもありますからなア。」
と大きな聲で笑つた。雪の來るのももう程なくであるさうだ。一月、二月、三月となると全くこの部屋以外に一歩も出られぬ朝夕を送る事になるといふ。
老人は立ち上つて、
「鱒の人工孵化をお目にかけませうか。」
と板圍ひの一棟へ私を案内した。其處には幾つとなく置き並べられた厚板作りの長い箱があり、すべての箱に水がさらさらと寒いひゞきを立てゝ流れてゐた。箱の中には孵《か》へされた小魚が蟲の樣にして泳いでゐた。
昨夜の約束通り私が老番人を連れてその沼べりの家を出かけようとすると、急にM―老人の部屋の戸があいて老人が顏を出した。そして叱りつける樣な聲で、
「××」
と番人の名を呼んで、
「今夜は歸らんといかんぞ、いゝか。」
言ひ捨てゝ戸を閉ぢた。
番人は途々M―老人に就いて語つた。あれで學校を出て役人になつて何十年たつか知らんがいまだに月給はこれ/\であること、然し今はC―家からも幾ら/\を貰つてゐること、酒は飮まず、いゝ物はたべず、この上なしの吝嗇だからたゞ溜る一方であること、俺と一緒では何彼と損がゆくところからあゝして自分自身で煮炊をしてたべてゐる事などを。
丸沼のへりを離れると路は昨日終日とほく眺めて來た黒木の密林の中に入つた。樅、栂、などすべて針葉樹の巨大なものがはてしなく並び立つて茂つてゐるのである。ことに或る場所では見渡す限り唐檜のみの茂つてゐるところがあつた。この木をも私は初めて見るのであつた。葉は樅に似、幹は杉の樣に眞直ぐに高く、やゝ白味を帶びて聳えて居るのである。そして賣り渡された四十五萬圓の金に割り當てると、これら一抱へ二抱への樹齡もわからぬ大木老樹たちが平均一本六錢から七錢の値に當つてゐるのださうだ。日の光を遮つて鬱然と聳えて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覺えざるを得なかつた。
長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があつた。菅沼と云つた。それを過ぎてやゝ平らかな林の中を通つてゐると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出てゐる水を見た。案内人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばなら
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