ぬのだ。
ばしや/\と私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる樣に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飮んだ。
草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終《つひ》に金精《こんせい》峠の絶頂に出た。眞向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男體山であつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。これから行つて泊らうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。ツイ右手の頭上には今にも崩れるばかりに見えて白根火山が聳えてゐた。男體山の右寄りにやゝ開けて見ゆるあたりは戰場ヶ原から中禪寺湖であるべきである。今までは毎日毎日おほく溪間へ溪間へ、山奧へ山奧へと奧深く入り込んで來たのであつたが、いまこの分水嶺の峰に立つて眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるゝ。これからは今までと反對に廣く明るいその方角へ向つて進むのだとおもふと、自づと心の輕くなるのを覺えた。
背伸びをしながら其處の落葉の中に腰をおろすと、其處には群馬栃木の縣界石が立つてゐた。そして四邊の樹木は全く一葉をとゞめず冬枯れてゐる。その枯れはてた枝のさき/″\には、既に早やうす茜色に氣色ばんだ木の芽が丸みを見せて萌えかけてゐるのである。深山の木は斯うして葉を落すと直ちに後の新芽を宿して、さうして永い間雪の中に埋もれて過し、雪の消ゆるを待つて一度に萌え出づるのである。
其處に來て老番人の顏色の甚しく曇つてゐるのを私は見た。どうしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、といふ。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行つて引返すころになるといま通つて來た路の霜柱が解けてゐる、その山坂を酒に醉つた身では歩くのが恐ろしいといふ。
「だから今夜泊つて明日朝早く歸ればいゝぢやないか。」
「やつばりさうも行きましねヱ、いま出かけにもあゝ言ふとりましたから……。」
涙ぐんでゐるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見てゐると、しみ/″\私はこの老爺が哀れになつた。
「さうか、なるほどそれもさうかも知れぬ……。」
私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買つて來て、何處か戸棚の隅にでも隱して置いて獨りで永く樂しむがいゝ
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