くるのでしょう」
「さあ?」
 と、消防手は首をかしげて、帆村の顔を見守るばかりだった。彼はどうやら、帆村の職業をそれと察したらしかった。
「風は昨夜から、どんな風に変りましたか」
「ああ風だすか。風は、そうですなア、今も昨夜も、ちっとも変ってえしまへん。北西の風だす」
 消防手だけに、風向きをよく知っている。
「北西というと、こっちになりますね。どうです、消防手さん。こっちの方向に、なにかこう煙の上っているようなところは見えないでしょうか」
 帆村の指す方角に、人のいい消防手はチラリと目をやったが、
「さよですなア、ちょっと見てみまひょう」
 といって、首にかけていた望遠鏡を慣れた手つきで取出すと、長く伸ばして、一方の眼におしあてた。
「いかがです。なにか見えるでしょう」
「さあ――ちょっと待っとくなはれ」
 と、彼は望遠鏡をしきりに伸《の》ばしたり縮《ちぢ》めたりしていたが、そのうちに、
「――ああ、あれかもしれへん」
 と、頓狂《とんきょう》な声を出した。
「ええッ、ありましたか」
 帆村は思わず、消防手の肩に手をかけた。
「三町ほど向うだす。岸姫《きしひめ》町というところだすな。まあ、これに違いないやろ思いまっさ。ひとつ覗《のぞ》いてごらん」
 帆村は、消防手のたすけを借りて、望遠鏡越しにその岸姫町の方をじっと眺めてみた。
「――な、見えますやろ。どえらい不細工《ぶさいく》な倉庫か病院かというような灰色の建物が見えまっしゃろ」
「ああ、これだな」
「見えましたやろ。そしたら、その屋根の上から突き出しとる幅の広い煙突《えんとつ》をごらん。なんやしらん、セメンが一部|剥《は》がれて、赤煉瓦《あかれんが》が出てるようだすな」
「ウン、見える見える」
「見えてでしたら、その煙突の上をごらん。煙が薄く出ていまっしゃろ、茶色の煙が……」
「おお出ている出ている、茶色の煙がねえ」
 帆村は、腕がしびれるほど、望遠鏡をもちあげて、破れ煙突から出る煙をジッと見守っていた。
 あの煙突から、昨夜の十時から今朝までも、あのとおり煙が出っ放しなんだろうか? そしてあの煙突の下に、果して臭気の原因があるのだろうか?
「あの建物は、なんですかねえ」
「さあ詳しいことは知りまへんけど、この辺の人は、あれを『奇人館』というてます。あの家には、年齢《とし》のハッキリせん男が一人住んでいるそうやと云うことだす」
「ほう、それはあの家の主人ですか」
「そうだっしゃろな。なんでも元は由緒あるドクトルかなんかやったということだす」
「外に同居人はいないのですか、お手伝いさんとか」
「そんなものは一人も居らへんということだす。尤《もっと》も出入の米屋さんとか酒屋さんとかがおますけれど、家の中のことは、とんと分らへんと云うとります」
「そのドクトルとかいう人物とは顔を合わさないのですか」
「そらもう合わすどころやあれへん。まず注文はすべて電話でしますのや。商人は品物をもっていって、裏口の外から開く押入《おしいれ》のようなところに置いてくるだけや云うてました。するとそこに代金が現金で置いてありますのや。それを黙って拾うてくるんやと、こないな話だすな。そやさかい向うの家の仁《じん》に顔を合わさしまへん」
「ずいぶん変った家ですね。――とにかくこれから一つ行ってみましょう」
 そういっているところへ、電話のベルがけたたましく鳴りだした。消防手は素早《すばや》く塔上の小室に飛びこんで、しきりに大声で答えていた。それは同じくこの臭気に関するもののようであった。それは消防手が再び帆村の前に現われたとき明白になった。
「――いま警察から電話が懸《かか》ってきましてん。この怪《け》ったいな臭《かざ》がお前とこから見えてえへんか云う質問だす。こら、なんか間違いごとが起ったんですなア。やあえらいことになりましたなあ」


   旅行中の貼り札


 帆村はその足で、すぐさま奇人館の前に行った。
 なるほど、それは実に奇妙な建物だった。よく病院の標本室に入ると、大きな砂糖|壜《びん》のような硝子《ガラス》器の中に、アルコール漬けになって、心臓や肺臓や、ときとすると子宮《しきゅう》などという臓器が、すっかり色彩というものを失ってしまって、どれを見てもただ灰色の塊《かたまり》でしかないというのが見られる。この奇人館はどこかそのアルコール漬けの臓器に似ていた。
 灰色の部厚いコンクリートの塀、そのすぐ後に迫って、膨《ふく》れ上ったような壁体《へきたい》でグルリと囲んだ函のような建物。――それらは幾十年の寒さ暑さに遭《あ》って、壁体の上には稲妻のような罅《ひび》が斜めにながく走り、雨にさんざんにうたれては、一面に世界地図のような汚斑《しみ》がべったりとつき、見るからにゾッとするような陰惨《いん
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