蠅男
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蠅男《はえおとこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一種|香《かん》ばしいような
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と床上に
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発端
問題の「蠅男《はえおとこ》」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。
只《ただ》われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息《せいそく》していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板《どぶいた》の下に三日前から転がっている鼠《ねずみ》の死骸《しがい》にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕《おどろ》くべきもの[#「もの」に傍点]が、誰にも知られることなく密かに埋没《まいぼつ》されているのである。
この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間の注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人の人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句《いちごんはんく》も誰にも喋《しゃべ》りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。
それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?
それは、臭《にお》いであった。
煤煙《ばいえん》の臥床《ふしど》に熟睡していたグレート大阪《おおさか》が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭《いや》な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。
妙《みょう》な臭《にお》い
大阪人は早起きだ。
それは師走《しわす》に入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた[#「しもた」に傍点]家では天窓がゴソリと引き開けられた。旅館でも病院でも学校でも、鎧戸《よろいど》の入った窓がバタンバタンと外へ開かれ、遠くの方からバスのエンジンの音が地響をうって聞えてくる。……
「なんやら。――怪《け》ったいな臭《かざ》がしとる」
「怪ったいな臭?――やっぱりそうやった。今朝からうち[#「うち」に傍点]の鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。――ほんまに怪ったいな臭やなア」
「ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ」
旅館の裏口を開いて外へ出たコックとお手伝いさんとは、鼻をクンクンいわせて、同じような渋面《しぶつら》を作りあった。
ここは大阪の南部、住吉区《すみよしく》の帝塚山《てづかやま》とよばれる一区画の朝だった。
「この臭《かざ》は、ちょっとアレに似とるやないか」
「えッ、アレいうたら何のことや」
「アレいうたら――そら、焼場の臭や」
「ああ、焼場の臭?」お手伝いさんは白いエプロンを急いで鼻にあてた。「そうやそうやそうや。うわァこら焼場の臭《にお》いやがナ」
そのうちに、臭いを気にする連中が、あとからあとへと起きてきて、てんでに廂《ひさし》を見上げたり、炊きつけたばかりの竈《かまど》の下を気にしたりした。だがこの淡い臭気が、一たい何処から発散しているものか、それを突き止めた者は誰もなかった。
ワイワイと、近所の騒ぎはますます激しくなっていった。しかも臭気はますます無遠慮《ぶえんりょ》に、住民たちの鼻と口とを襲った。
東京のビジネス・センター有楽町に事務所をもつ有名な青年探偵の帆村荘六《ほむらそうろく》も、この騒ぎのなかに、旅館の蒲団《ふとん》の中に目ざめた。彼は或る重大事件の調査のため、はるばるこの大阪へ来ていたのだった。そして昨夜から、このマスヤ旅館に宿泊していた。
「――や、どうも。帝塚山はたいへん静かだという話だったが、こう騒々しいところをみると、あれはわざと逆の言葉を使って、皮肉を飛ばしたつもりなのかしら」
彼は寝不足の充血した目をこすりながら、起きあがった。そして丹前《たんぜん》を羽織《はお》ると、縁側に出
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