ルの屍体がプスプス燃えているというのは、どうも変なことではないか。ドクトルが若し旅行を早くうち切って家に帰ったところ、邸内に忍びこんでいた蠅男のために殺されたのであったとしたら、家に入る前に、まず旅行中の掲示を外すのが当り前だ。ところがあのとおり掲示はチャンとしていたのであるから、それから考えるとドクトルが殺されたのだと考えるのは変ではないか。
 このとき村松検事はパイプを咥《くわ》えたまま、ニヤリニヤリと人の悪そうな笑いをうかべ、
「ウフ、名探偵帆村荘六さえ、そう思っていてくれると知ったら、蠅男は後から灘《なだ》の生《き》一本かなんかを贈ってくるだろうよ」
「灘の生一本? 僕は甘党なんですがねえ」
「ホイそうだったネ。それじゃ話にもならない。――いいかね、旅行中の看板を出したのは、訪問客を邸内に入れない計略なのだ。邸内に入られて御覧。そこにドクトルの屍体があって、火炙《ひあぶ》りになろうとしていらあネ。それでは犯人のために都合が悪かろうじゃないか。アメリカでは、よくこんな手を用いる犯罪者がある」そんなことを知らなかったのか、とにかく帆村は苦笑をした。「じゃ、ドクトルはもうこの世に姿を現わさないと仰有るのですね」
「それは現わすことがあるかも知れない。君、幽霊というやつはネ、今でも――」
 帆村は愕いて、もうよく分りましたと云わんばかりに人を喰った検事の方へ両手を拡げて降参降参をした。
「じゃ検事さん。ドクトルを殺したのは誰です」
「きまっているじゃないか。蠅男が『殺すぞ』と説明書を置いていった」
「じゃあ、あの機関銃を射った奴は何者です」
「うん、どうも彼奴《あいつ》の素性《すじょう》がよく解せないんで、憂鬱《ゆううつ》なんだ。彼奴が蠅男であってくれれば、ことは簡単にきまるんだが」
「さすがの検事さんも、悲鳴をあげましたね。あの機関銃の射手と蠅男とは別ものですよ。蠅男が機関銃を持っていれば、パラパラと相手の胸もとを蜂の巣のようにして抛《ほう》って逃げます。なにも痴情の果《はて》ではあるまいし、屍体を素裸にして、ストーブの中に逆さ釣りにして燃やすなんて手数のかかることをするものですか」
「オヤ、君は、あの犯人を痴情の果だというのかい。するとドクトルの情婦かなんかが殺ったと云うんだネ。そうなると、話は俄然《がぜん》おもしろいが、まさか君も、流行のお定宗《さだしゅう》でもあるまいネ」
 帆村はそれを聞くと、胸をちょっと張っていささか得意な顔つきで、
「だが検事さん。あのドクトル邸は、ドクトル一人しかいなかったと仰有っていますが、事件前後に、若い女があの邸内にいたことを御存じですか」
「ナニ若い女が居た――若い女が居たというのかネ。それは君、本当か。――」
 村松検事は、冗談でない顔付になって、帆村の顔を穴の明くほど見つめた。


   探偵眼


 そこで帆村は、屍体発見当日、手洗所の鏡の前に、フランス製の白粉《おしろい》が滾《こぼ》れていたことなどを検事のために話して聞かせた。
「そうかい、そういう若い女が、この陰鬱《いんうつ》な邸内にいたとは愕いたネ」
 と、村松検事は、首をうなだれてやや考えていたが、やがて首をムックリ起すと、可笑《おか》しそうにクスクス笑いだした。
「なにがそんなに可笑しいのです」
「だって君、脅迫状の主は、蠅男だよ。いいかネ。蠅男であって、あくまで蠅女ではないんだよ。若い女がいてもいい。これがドクトル殺しの犯人だとは思えないさ」
「でも検事さん。さっき仰有《おっしゃ》ったように、この蠅男なる人物は、偽《いつわ》りの旅行中の看板をかけるような悧巧《りこう》な人間なんですよ。女だから蠅男でないとは云い切らぬ方がよくはありませんか。それよりも、早くそのフランス製の白粉の女を探しだして、それが蠅男ではないという証明をする方が近道ですよ」
「ウム、なるほど、なるほど」
 検事は、孫の話を聴く祖父のように、無邪気に首を大きく振って肯いた。
 そのとき、奥の方から一人の警官が、急ぎ足で入ってきた。
「検事どのに申上げます。只今、正木署長からお電話でございます。玉屋邸から懸けて参っとります」
 検事は、その声に席を立っていった。帆村は、引返そうとする警官をつかまえて、莨《たばこ》を一本所望した。警官はバットの箱ごと帆村の手に渡して、アタフタと検事の後を追っていった。
 帆村は、バットを一本ぬきだして口に咥えた。そして燐寸《マッチ》を求めてあたりを見まわしたが、このとき室の隅に、立たせられている鴨下カオルと上原山治の姿に気がついた。
「おお上原さん、燐寸をお持ちじゃありませんか」
 と、帆村はその方へ近づいていった。
 張り番の警官の方が愕いて、ポケットから燐寸を押しだして、帆村の方へさしだしたけれど、帆村はそれに気がつか
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