ないらしく、
「いや、どうもすみません」
と、上原青年の貸して呉れた燐寸を手にとった。そしてバットに火を点けて、うまそうに煙を吸った。
「――東京は、わりあいに暖いようですね」
「――はア暖こうございましたが」
と、上原青年は眼をパチパチさせた。
「今朝早く、鴨下さんを迎えにゆかれたんですね」
「はア――そうです」
「雨のところを、大変でしたネ」
「ええッ――そうでございます」
「あの、板橋区の長崎町も、随分開けましたネ」
「あッ、御存じですか、鴨下さんの住んでいらっしゃる辺を――」
「いや、こうしてお目に懸るまで、存じませんでしたが」
若い男女は、愕きの目を見張って、互いに顔を見合わせた。
「きょうの列車は、燕《つばめ》号ですネ。だいぶん空《す》いていましたネ。お嬢さんは、よく睡れましたか」
これを聞いていたカオルは、真青になった。
「ああ、もうよして下さい。気持が悪くなりますわ。探偵なんて、なんて厭《いや》な商売でしょう。まるであたしたち、監視されていたようですわ」
帆村は、笑いかけた顔を、急に生真面目な顔に訂正しながら、
「やあ、お気にさわったらお許し下さい。もうお天気の話はよします」
といって、指先に挟《はさ》んだ莨《たばこ》をマジマジと見るのであった。
そこへ電話口へ出ていた村松検事が帰ってきた。あとに警察の保姆《ほぼ》がついている。
「おう、帆村君、正木署長の電話によると、いま玉屋総一郎の邸に、怪しき男が現われて邸内をウロウロしているそうだよ。いよいよチャンバラが始まるかもしれないということだ。これから一緒に行ってみようじゃないか」
「ほう、また怪しき男ですか。どうも怪しき男が多すぎますね」
カオルの連れの上原山治が、キラリと眼を動かした。
「多いぶんには構わない。足りないよりはいいだろう。――それからお嬢さんに上原君でしたかな。二階に落着いた部屋があるから、そこでゆっくり休んで下さい。この婦人が世話をしますから、どうぞ」
検事が頤《あご》をしゃくると、保姆は人慣れた様子で二人に挨拶し、二階へ案内する旨《むね》を申述べた。――二人は観念したものと見え、また互いの眼を見合わせたまま、保姆の後について、部屋を出ていった。
「さあ、行こう。――が、君の服装は困ったネ」と検事が顔をしかめた。
「いや、服ならあるんです。ソロソロ閑《ひま》になりましたから、一つ着かえますかな」
そういって帆村は、そこに張り番をしていた警官に会釈すると、警官は椅子の上に置いてあった風呂敷包みをとって差出した。風呂敷を解くと、宿屋に残してあった洋服がそっくり入っていた。
「呆《あき》れたものだ。早く着換えとけばいいのに――」
「そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ」
そういいながら、帆村は借りていた警官のオーバーを脱ぎ、病院の白い病衣を脱ぎすてた。
警官は帆村のために、襯衣《シャツ》やズボンをとってやりながら、検事には遠慮がちに、帆村に話しかけた。
「――もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか」
「ええ、何のことです」
「そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚《びっくり》しとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい」
藍甕転覆《あいがめてんぷく》事件
帆村はそれを聞くと面映《おもは》ゆげにニッと笑い、
「あああれですか。あれは透視術でもなんでもないのですよ。聞くだけ、貴下が腹を立てるようなものだけれど――」
「ナニ帆村荘六の透視術?」と早耳の検事はその言葉を聞き咎めて、「――おい君、善良な警官を悪くしちゃ困るよ」
「いや話を聞いておくだけなら、悪かなりませんよ」と帆村は弁解して、「――もちろん種があるんです。これは有名なシャーロック・ホームズ探偵がときに用いたと同じような手なんです。――さっき青年上原君に燐寸を借りたでしょう。あの燐寸は、燕号の食堂で出している燐寸です。まだ一ぱい軸木がつまっていました。夜には大阪着ですから、ここへ二人が現われた時間が十時頃で、燕号で来たことは皆ピッタリ符合します。なんでもないことですよ」
「ははア燐寸と鉄道時間表の常識とが種だっか」と警官は大真面目に感心して、「すると東京が暖いとか、雨が降っていたというのは――」
「あれは、上原君なんかの靴を見たんです。かなりに泥にまみれていました。ご承知のように、わが大阪は上天気です。しからば、あの靴の泥は東京で附着したのに違いないでしょう。それも雨です。もし雪だったら、ああは
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