。
「なアんだ。誰もいやしない」
廊下には、猫一匹いなかった。それでも彼は念のため、廊下に出て、窓を調べてみた。窓には内側からキチンと錠が下りていた。しかし窓はしきりにガタガタと鳴っていた。真暗な外には、どうやら風が出てきたらしい。帆村はホッと息をついて、自分の部屋に帰っていった。
風は目に見えるように次第に強くなり、ヒューッと呻り声をあげて廂《ひさし》を吹きぬけてゆくのが聞えた。
こうしてひとりでいると、まるで牢獄のうちに監禁されたまま、悪魔が口から吐きだす嵐のなかに吹き飛ばされてゆくような心細さが湧いてくるのであった。
チリチリチリ、チリン。
突然、電鈴《ベル》が鳴った。電話だ。
それは夢でも幻想でもなかった。たしかに室内電話が鳴ったのである。深夜の電話! 一体どこから掛ってきたのであろう。
帆村は受話器をとりあげた。
「帆村君かネ」
「そうです。貴方は誰?」
帆村の表情がキッと硬ばり、彼の右手がポケットのピストルを探った。
「こっちはお馴染《なじみ》の蠅男さ」
「なに、蠅男?」
蠅男がまた電話をかけてきたのだ。村松検事の声とは全然違う。帆村は、蠅男に対する恐ろしさよりは、この蠅男の電話を、ぜひとも水田検事に聞かせてやりたかった。
「どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ」
「貴様が殺《や》ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌《は》められているんだぞ」
「うふふふ。検事が縛られているなんて面白いじゃないか」と蠅男は憎々しげに笑った。「どう調べたって、検事が殺ったとしか思えないところが気に入ったろう。口惜しかったら、それをお前の手でひっくりかえしてみろ。だが、あれも貴様への最後の警告なんだぞ。この上、まだ俺の仕事の邪魔をするんだったら、そのときは貴様が吠《ほ》え面《づら》をかく番になるぞ。よく考えてみろ。もう電話はかけない。この次は直接行動で、目に物を見せてくれるわ。うふふふ」
「オイ待て、蠅男!」
だが、この刹那《せつな》に、電話はプツリと切れてしまった。
神出鬼没とは、この蠅男のことだろう。彼奴は、帆村の入った先を、すぐ知ってしまったのだ。いまの電話の脅し文句も、嘘であるとは思えない。蠅男は宣言どおり、いよいよこれからは直接行動で、帆村に迫ってこようというのだった。帆村はもう覚悟をしなければならなかった。
帆村は奮然《ふんぜん》と、卓を叩いて立ち上った。
(そうだ。村松検事を救い出す手は外にないのだ。それは蠅男を逮捕する一途があるばかりだ。やれ、村松検事が殺人罪に堕ちた。やれ、糸子さんが蠅男に誘拐された。やれ、今度は誰のところに死の宣告状がゆくか。やれ、どうしたこうしたということを気に懸けているより、そんなことには頓着することなく、一直線に蠅男の懐にとびこんでゆくのが勝ちなのだ。蠅男はそうさせまいとして、俺の注意力が散るようにいろいろな事件を組立てて、それを妨害しているのにちがいない。よオし、こうなれば、誰が死のうとこっちが殺されようと、一直線に蠅男の懐にとびこんでみせるぞ)
今や青年探偵帆村荘六は、心の底から憤慨したようであった。一体帆村という男は、探偵でありながら、熱情に生きる男だった。その熱情が本当に迸《ほとばし》り出たときに、彼は誰にもやれない離れ業を呀《あ》ッという間に見事にやってのけるたちだった。今までは、蠅男を探偵していたとはいうものの、その筋の捜査陣に気がねをしたり、それからまたセンチメンタルな同情心を起して麗人をかばってみたり、いろいろと道草を喰っていたのだ。翻然《ほんぜん》と、探偵帆村は勇敢に立ち上った。
(一体、蠅男というやつがいくら鬼神でも、これだけの事件を起して、その正体を現わさないというのは可笑《おか》しいことだ。今までに知られた材料から、蠅男の正体がハッキリ出て来ないというのでは、帆村荘六の探偵商売も、もう看板を焼いてしまったがいい。うむ、今夜のうちに、何が何でも、蠅男の正体をあばいてしまわねば、俺はクリクリ坊主になって、眉毛まで剃ってしまうぞ)
帆村は眉をピクリと動かすと、何と思ったか、狭い室内を檻に入れられたライオンのように、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして気ぜわしそうに歩きだした。
糸子の立腹
帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。
とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちに嘗《な》めつくしたらしいことが、その風体《ふうてい》からして推《お》しはかられた。
帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いの外《ほか》、彼はその前を知らぬ顔して、自
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