たが、そのときドクトルは横腹をおさえて顔を顰《しか》め、ボーイに手洗所の在所《ありか》を聞いた。
そこでボーイが一隅を指《ゆびさ》すと、ドクトルは村松氏に先へ行くようにと挨拶して、アタフタと手洗所の中へ入っていった。
ボーイは村松氏だけを案内して、六階にある塩田先生の貸切り室へ連れていった。扉をノックすると、塩田先生が自ら入口を開いて、村松氏を招じ入れた。鴨下ドクトルは今手洗所に入っているから、間もなく来るであろうと村松氏が云えば、先生は大きく肯《うなず》き、そうかそうかといって、急いで村松氏の手をとり、室内へ入れ、扉をピタリと閉じた。
ボーイは、手洗所から鴨下ドクトルが出て来ない前に、階下へ下りていなければならぬと思ったので、エレヴェーターを呼んで、スーッと下に下りていった。
約七、八分の間であったと、ボーイは後に証言した。ボーイが、手洗所から出てきた鴨下ドクトルを案内して、再び塩田先生の室の前に立ったまでの時の歩みを後から思い出してみると、――
その七、八分という短い時間のうちに、塩田先生の室には大変なことが起っていたのだった。それとも知らぬボーイは、室の扉をコンコンとノックした。
しかるに、室のなかからは、何の返事もない。聞えないのかと思って、もう一度、すこし高い音をたててノックしたが、やはり返事がない。
「オイ、どうしたんじゃ。お前は部屋を間違えとるんじゃないか。しっかりせい」
と、気短かの鴨下ドクトルは、ボーイを呶鳴りつけた。
ボーイは、そういわれて、室番号を見直したが、たしかに間違いない。室内には、電灯が煌々《こうこう》とついている。六階で電灯のついているのは、そんなに沢山あるわけではない。どうしてもこの室なのに、塩田先生と村松氏は、一体中で何をしているのだろう。
ボーイは把手《ノッブ》をつかんで、押してみた。
だが、扉はビクともしない。内側から鍵がかかっているのだった。
「変だなア。モシモシ、お客さん――」
と、ボーイは大声で呶鳴りながら、扉を激しく叩いた。
すると、扉のうちで、おうと微《かす》かに返事をする者があった。
ボーイはホッとして、鴨下ドクトルの顔を見上げた。ドクトルは鬚だらけの顔のなかから、ニヤニヤと笑っていた。
やがて扉の向うで、鍵の廻る音が聞えた。そして扉がギーッと内に開いて、顔を出したのは村松検事だった。だが彼の顔は、血の気を失って、まるで死人のように真青であった。
検事は、ブルブル慄《ふる》う指先で室内を指し、
「殺人事件がおこったんだ。ボーイ君。そこらにいる人を大声で呼びあつめるんだ。それから、鴨下ドクトル。すみませんが、どこかそこらの室から電話をかけて、警察へ知らせてくださらんか」
村松は、やっとそれだけのことを云った。ボーイは、扉ごしにチラリと室内を見やった。絨毯《じゅうたん》の上に、大きな人間の身体が血まみれになって倒れているのが明るい電灯の下によく見えた。彼はドキンとして、腹の中から自然に声がとび出した。
「おう、人殺しだッ。皆さん早く来て下さいッ」
引かれゆく殺人検事?
電話で知らせたので、警察からは係官が宙をとんで駈けつけた。
惨劇の室内に入ってみると、そうも広くないこの室は、なまぐさい血の香で噎《むせ》ぶようであった。
塩田先生は、脳天をうち砕かれ、上半身を朱に染めて死んでいた。これが曾《かつ》て、鬼検事正といわれ京浜地方の住民から畏敬されていた塩田律之進の姿なのであろうか。それはあまりにも悲惨な最期だった。
係官の取調べが始まった。
塩田先生が殺害された当時、この室のうちに誰がいたか。
それは外でもない。村松検事只一人だったことを証明する者が沢山居た。
ボーイも証言した。鴨下ドクトルも、もちろん同意した。階下の事務所にいて、塩田先生のところへ電話をかけたボーイ長もそれを否定しなかった。鴨下ドクトルが手洗所に入り手洗所から出てくるのをみていた、女事務員たちの中にも、それに異議をいう者がなかった。
「どうです、村松さん。これについて何か云いたいことがありますか」
当直の水田検事が、気の毒そうに、この先輩にあたる村松に訊いた。
「……」
村松は物を云うかわりに、首を左右に振って答えた。口を開く気力もないといった風であった。
「では村松さん。貴方はここに死んでいる人を殺した覚えがありますか」
村松は、更に無言のまま首を左右にふった。
「では、この人は、どうしてここに死んでいるのです」
村松はやはり黙々として、かぶりを振った。
「検事はん。血まみれの文鎮についとった指紋が、うまく出よりました。これだす」
そういって、鑑識課員が、白い紙に転写した指紋と、凶器になった文鎮とを差出した。
「それから、ちょっと村松氏の指紋を
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