い刃をジリジリと近づけつつあるのではあるまいか。殺人宣告書は誰がもっているのか分らないが、一体誰が殺される役まわりになっているのだろうか。
そのとき帆村は、まっさきに心配になるものを思いだした。彼は急に機械のまわりだした人形のように、トコトコ歩きだした。
彼は交番へ入った。そして電話で、宝塚のホテルに詰めている大川司法主任をよんでもらうように頼んだ。
「モシモシ、こっちは大川だす。なんの用だすかいな」
帆村はその声を聞いて、胸を躍らせた。彼はその後の蠅男の事情を報告して、もしや糸子のところに死の宣告書が来ていないかを尋ねた。
「それは大丈夫だす。そんなものは決して来てえしまへん。安心しなはれ」
大川主任はキッパリ答えた。
帆村は安心をして電話を切ったが、しかしまた新たなる心配が湧き上ってきた。
「誰かが、死の宣告書をつきつけられているのに違いない。その人は何かの理由があって、そのことを警察に云ってこないのではないか。早く云ってくれば助けられるかも知れないのに……」
そんなことを考えつづけているときだった。霞町《かすみちょう》の角を曲って、こっちへ進んで来た自動車が、ピタリと停った。
誰だろうと見ると、なかからヒョイと顔を出したのは余人ならず鴨下ドクトルの鬚面であった。
「正木さん、オイ正木さんは居らんか」
ドクトルは住吉署長の名をしきりと呼んだ。
なにごとだろうと、正木署長は自動車のところへ駆けつけた。
「おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ」
「えッ、蠅男が現われたと……」
誰も彼もサッと顔色をかえた。
「誰が殺されたんです」
帆村が反問した。
「殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う」
「蠅男ではないんですか」
「あれが蠅男なんだろうな」ドクトルは小首を傾け、
「とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ」
「ええッ、村松検事が……」
「塩田先生を殺したというのですか」
「そして検事が蠅男だとは、まさか……」
一同はあまりのことに腰を抜かさんばかりに愕いた。村松検事があの恐るべき蠅男だったとは、誰が信じようか。しかしドクトルの言葉は、出鱈目を云っているとは思われない。どこかに間違いがあるのであろう。一体どこが間違っているのか?
間違っていないことは、帆村にいったとおり、それが誰にもせよ「蠅男」が今夜もキッパリ人を殺したということ!
法曹クラブの殺人
村松検事は、果して恐るべき殺人魔「蠅男」なのであろうか?
検事を信ずることの篤《あつ》い帆村探偵は、誰が何といおうと、それが間違いであることを信じていた。しかし何ごとも証拠次第で決まる世の中だった。元の鬼検事正、塩田先生の殺害現場を調べた検察官はまことに遺憾にたえないことだったけれど、村松検事を殺人容疑者として逮捕するしかないのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならぬ証拠を握っていたのであった。
そのときの報告書に記された殺人|顛末《てんまつ》は、次のような次第であった。
場所は、大阪の丸の内街と称せられる堂島に、最近建てられた六階建のビルディングで、名づけて法曹クラブ・ビルというところだった。
当夜午後九時をすこし廻ったとき、人造大理石の柱も美々しいビルの玄関に、一台の自動車が停った。そして中から降りて来たのは一人の鬚の深い老人と、もう一人は黒い服を着た顔色の青白い中年の紳士だった。この老人は、云わずとしれた鴨下ドクトルだったし、黒服の中年紳士は村松検事であった。
二人はボーイに来意をつげた。
ボーイは早速電話でもって、塩田先生に貸してある小室へ電話をかけた。すると塩田先生が電話口に現われて、
「おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ」
「左様でございます」
とボーイは返事をした。
すると塩田先生は、何思ったか急に言葉を改めて、ボーイに云うには、
「実は、これは客に知れては困るので、君だけが心得て、ソッと知らせて貰いたいんだが……」、と前提して、「その村松という客の前額に、斜めになった一寸ほどの薄い傷痕がついているだろうか。ハイかイイエか、簡単に応えてくれんか」
ボーイはこの奇妙な質問に愕いたが、云われたとおり村松氏の額《ひたい》を見ると、なるほど薄い傷痕が一つついていた。
「ハイ、そのとおりでございます」
「おおそうかい」と、塩田先生は安心したような声を出して、「では丁寧に、こっちへお通ししてくれんか」
二人の客は、そこで帽子とオーバーとを預けて、エレヴェーターの方に歩いていっ
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