ながら、
「フーム、実に興味|津々《しんしん》たる人物だ」
 と歎息《たんそく》した。
 そして正木署長の方を向いて、鴨下ドクトルが帰館して、あの暖炉《だんろ》のなかの屍体のことをどういったか、それからまたドクトルは何処に行っていたのかなどという予《かね》て彼の知りたいと思っていたことを訊《き》いてみた。
 それに対して署長は苦笑《にがわら》いをしながら、イヤどうも万事あの調子なので、訊問《じんもん》に手古《てこ》ずったがと前置きして、次のように説明した。
 すなわちドクトルは、急に思いたって東京に行っていたのだそうである。そして十二月一日から五日まで、上野の科学博物館へ日参して博物の標本をたんねんに見てきたそうである。宿は下谷区《したやく》初音町《はつねちょう》の知人の家に泊っていたという。
 それから暖炉のなかの屍体は、一向心あたりがないという。これはお前たちの警戒が下手くそのせいだとプンプン怒っていたとのことである。
 ドクトルのいったことが正に本当かどうか、それは上申して目下取調べを警視庁に依頼してあるということだった。
 帆村は早くその報告が知りたいものだと思った。しかしまだ二、三日は懸るのであろう。
「それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか」
「ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚《いいなずけ》は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん」
「ほほう、そうですか」


   大戦慄《だいせんりつ》


 非常警戒の夜は、張り合いのないほど静かに更《ふ》けていった。蠅男はどこにひそんでいるのか、コトリとも音をたてない。ドクトルの騒ぎが、最後の活気であるかのように思われた。
 この調子なら、蠅男もこの一画に閉じこめられたまま、あの殺人宣言はむなしく空文《くうぶん》に終ってしまうことかと思われた。
 正木署長が呼ばれて、交番の方へ歩いていった。
 しばらくして、署長はトコトコと元の位置へ帰ってきた。
「どうかしましたかネ」
 帆村は退屈さも半分手つだって、署長に声をかけた。
「いや、行きちがいの話だんね」
「ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか」
「まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや」
「村松さんはもう行ったじゃないですか」
「そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん」
「しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ」
 二人の会話は、そこでまたもや杜切《とぎ》れてしまった。帆村は次第につのり来る寒さに、外套の襟を深々とたて、あとは黙々として更けてゆく夜の音に、ただジッと耳を澄ましたのだった。
 おお蠅男は、どこに潜《ひそ》んでいる?
 こうして頤紐《あごひも》をかけた大勢の警官隊でもって、大阪きっての歓楽の巷である新世界と大阪一の天王寺公園とを冬の陣のようにとりかこんでいるが、蠅男とお竜とはもういつの間にか、この囲みをぬけてどこかへ逃げてしまったのではないか。
 全く神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の怪漢蠅男のことだから、容易に捕る筈がない。しかもこの界隈《かいわい》は、人間の多いこと、抜け裏の多いことで大阪一の隠れ場所だ。いまに活動や芝居がはねて、群衆が新世界からドッと流れだしたときには、警官隊はどうしてその夥《おびただ》しい人間の首実検をするのであろうか。恐らく蠅男は、その閉場《はね》の時刻を待っているのであろう。
 怪漢蠅男ほど頭の働く悪人は聞いたことがない。彼奴はすこぶるの知恵者であり、そして云ったことを必ず実行する人間であり、そして人一倍の見栄坊だ。彼はどうしても今夜のうちに、異常なセンセイションをひき起す殺人を実演してみせるに違いない。だからこの一画のなかに縮こまっているなんて、そんな筈がないのだ。
 その蠅男と、彼帆村とは、きょうはじめて口を利きあった。それは電話でのことであったが、特筆大書すべき出来ごとだった。
 糸子をかえしてよこして、彼に探偵を断念しろというところなんか、実に凄い脅迫である。彼は今、やっぱり探偵根性をもって、蠅男のあとを嗅ぎまわっているが、これが蠅男に知れずにはいまい。そのときこそ、彼は一大決心を固めなければならない。蠅男の知恵には、さすがの彼も全く一歩どころか数歩をゆずらなければならない。
 こうしているうちにも、蠅男は誰かの胸もとに鋭
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