あわしたようにそういいよったんで……」
「フーム」
 帆村はその奇怪な話を聞いて、狐に鼻をつままれたような気がした。
「そうそう、そういえば先刻の蠅男の電話では、蠅男は今夜のうちにまた誰かを殺すといっていましたよ」
「なに今夜のうちに、また殺すって」
 検事が愕いて聞きかえした。
「ほんまかいな――」
 正木署長は恐怖のあまりしばらくは口も利けなかったほどだった。
「誰か蠅男から脅迫状をうけとった者はないのですか」
 検事と署長とは、思わず不安げな顔を見合わせた。


   奇行《きこう》ドクトルの出現


「誰だろう、こんどの犠牲は?」
「さあ、蠅男から死の脅迫状をうけとったいう訴えはどこからも来てえしまへんぜ」
「フーム、変だな」
 検事と署長とは、強く首をふった。
「なんだ。誰が殺されるか、まだ分っていないのですか」
 帆村も唖然《あぜん》とした。蠅男は電話でもってたしかに殺人を宣言したのだった。そしてその殺人は、満都を震駭《しんがい》させるほど残虐をきわめたものであるらしいことは、蠅男の口ぶりで察せられた。あの見栄坊の蠅男が、それほどの大犯罪をやろうとしながら、相手に警告状を出さない筈はないと思われる。
 そもこの戦慄《せんりつ》すべき犠牲者は、何処の誰なのであろうか。
「来た来た、あれだッ」
 と、そのとき叫ぶ者があった。
 帆村はハッとしてその方を向いた。
 動物園の入口から、一人の老紳士が警官に護られながらこっちへ歩いてくるのが見えた。それは、さっき伝令の警官から報告のあったように、夜の動物園のなかにうろついていた疑問の人物であろう。
 老紳士はすこし猫背の太った身体の持ち主だった。頭の上にチョコンと小さい中折帽子をいただき、ヨチヨチと歩いてくる。そして毛ぶかい頤鬚《あごひげ》や口髭《くちひげ》をブルブルふるわせながら、低声《こごえ》の皺がれ声で何かブツブツいっていた。どうやら警官の取扱いに憤慨しているらしかった。
「……どうもお前らは分らず屋ばかりじゃのう。早く分る男を出せ。天下に名高い儂《わし》を知らないとは情けないやつじゃ」
 と、老紳士はプンプンしていた。
「おお、あれは鴨下《かもした》ドクトルじゃないか」
 と正木署長は、意外の面持《おももち》だった。
「儂を知らんか、知っとる奴が居るはずやぞ。もっと豪《えら》い人間を出せ」
「おお鴨下ドクトル!」
「おお儂の名を呼んだな。――呼んだのはお前じゃな。うむ、これは署長じゃ。この間会って知っている。お前は感心じゃが、お前の部下は実に没常識ぞろいじゃぞ。儂のことを蠅男と呼ばわりおったッ」
 老紳士は果然《かぜん》鴨下ドクトルだったのだ。ドクトルはなおも口をモガモガさせて、黒革の手袋をはめた手に握った細い洋杖《ステッキ》をふりあげて、いまいましそうにうちふった。
 正木署長はドクトルに事情を話して諒解《りょうかい》を乞うた上で、なおドクトルが夜の動物園で何をしていたのかを鄭重《ていちょう》に質問した。
「なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか」
「それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ」
「ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進《しおたりつのしん》に聞け」
「えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正《けんじせい》塩田先生のことですか」
 村松検事が愕いて横合いから出てきた。
「そうじゃ、塩田といえば彼奴《あいつ》にきまっとる。あれは儂の昔からの友人じゃ」とドクトルはジロリと一同を見まわし、
「それに儂《わし》は塩田と約束して、これから堂島《どうじま》の法曹クラブに訪ねてゆくことになっとる。心配な奴は、儂について来い。しかし邪魔にならぬようについて来ないと、遠慮なく呶鳴りつけるぞ」
 あの有名な塩田先生の友人と聞いては、検事も署長も、大タジタジの体であった。なかにも村松検事は、塩田先生の門下の俊才として知られていた。それで彼は、この上、先生の友人である鴨下ドクトルを警官たちが怒らせることを心配して、
「じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ」
「なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ」
 奇人館の主人は、なるほど奇人じみていた。検事はそれをうまくあしらいながら、署長たちに断りをいって、ドクトルのお伴をすることになった。堤《どて》のところに待っていた一台の警察の紋のついた自動車がよばれ、それにドクトルと検事は乗りこんで、出かけていった。
 帆村は、はじめて見た鴨下ドクトルの去ったあとを見送り
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