のトランクに入れ、それを自動車に積んで、彼は泊り客のような顔をしてこのホテルに入りこんだのだった。そして隙をみて、このトランクのなかから糸子を出し、合鍵で帆村の部屋を明けて、そのベッドの上に糸子を寝かせたというわけだった。その上かの蠅男は、脅迫状を作って、窓から庭に投げだし、直ちに帳場氏を電話口に呼び出して、それを拾わせたと説明した。そのとき帳場氏は、怪訝《けげん》な顔をしていった。
「そら妙やなア。あの電話が蠅男やったとすると、蠅男はホテルの外にいたことになりまっせ。なんでやいうたら、あの電話はホテルのなかから懸けたんやあれしまへんさかい。電話を懸けた蠅男と、この部屋に居った蠅男と、蠅男が二人も居るのんやろか」
帆村はそれを聞いて大きく肯《うなず》き、
「そのことなら、さっきやっとのことで謎を解いたんです。蠅男はホテルのなかに居るのを知られないために、電話にも奇略《トリック》をつかったんです」
「へえ、どんな奇略を――」
「それはホテルの交換台からすぐに帳場をつながないで、一旦部屋から外線につないで貰い、電話局から再び別の電話番号でこのホテルに懸け、一度交換台を経て帳場につないで貰ったんですなア。そうすれば、同じホテル内の部屋にかけたにしろ、電話局まで大廻りして来たから、電話の声がホテル内同士でかけるよりはずっと小さくなったんです。実に巧みな奇略だ」
「なるほどなア」と巡査部長は感心をしたが、
「しかし、なんでそんなややこしい事をしましたんやろ。糸子さんの胸の上にでも、その脅迫状をのせといたらええのになア」
「いやそれはつまり、今ホテルに蠅男が入っていることを知られたくはなかったんです。あくまで自分は井上一夫で、蠅男ではないという現場不在証明《アリバイ》を作って置きたかったんです」
「なるほどなるほど。それにしても蠅男ほどの大悪漢のくせに、小さいことをビクビクしてまんな」
「いやそこですよ」
といって帆村は二人の顔をジッと見た。
「蠅男は今にもう一度このホテルに帰ってくるつもりなんですよ。普通の泊り客らしい顔をしてネ」
「えッ、蠅男がもう一度ここへ帰ってくるというのでっか。さあ、そいつは――そいつは豪《えら》いこっちゃ。どないしまほ」
そのとき廊下をボーイが、急ぎ足でやって来た。
「ああ、いま帳場に電話が来とりまっせ。井上一夫はんいうお客さんからだす」井上一夫? ああ井上一夫といえば、蠅男の仮称である。蠅男はいまごろ何の用あってホテルに電話をかけてきたのだろうか。三人は恐怖のあまり言葉もなく、サッと顔色を変えた。
蠅男の声
井上一夫という偽名を使っている怪人蠅男が、ホテルへ電話をかけてきたというボーイの注進である。
帳場氏はもちろん真蒼に顔色をかえると、勇猛をもって鳴る大川司法主任も、空のトランクから手を放して、木製人形のように身体を硬直させた。ひとり帆村探偵は、咄嗟《とっさ》の間にも、この際どうすればいいかを知っていた。
「さあ君、帳場に来ている蠅男の電話を、早くその電話器につなぎかえたまえ」
と、この三三六号室の卓上電話器を指した。
帳場氏はオズオズと受話器に手をかけた。間もなく蠅男の声が、そのなかに流れこんできた。
「えッ、帆村さんだすか。へえ、居やはりま。いま代りますさかい。――」
帳場氏は帆村の方をむいて、蛇でも渡すかのように、受話器をさしだした。そして自分はうまく助かったとホッと大きな息をついた。
帆村は無造作《むぞうさ》に受話器をとった。しかし彼はそれを耳にもっていく前に、左手で鉛筆を出し、ポケットから出した紙片になにかスラスラと器用な左書きで文字をかきつけて、大川主任に手渡した。
大川はそれを受取って大急ぎで読み下した。そして無言のままおおきく肯《うなず》くと、そのまま部屋を出ていった。
「ハイハイ、お待ちどうさま。僕は帆村ですが、貴方はどなたさんですか」
すると向うで、作り声らしい太い声が聞えてきた。
「探偵の帆村荘六君だネ。こっちは蠅男だ」
「えッ、電話がすこし遠いのでよく聞えませんが、ハヤイトコどうするんですか」
「ハヤイトコではない、蠅男だッ」
「えッ、早床《はやとこ》さんですか。すると散髪屋ですね」
向うで呶鳴《どな》る声がした。
帆村は今日にかぎって、たいへんカン[#「カン」に傍点]がわるいらしい。
「ああそうですか、蠅男だとおっしゃるんですな、あの今大阪市中に大人気の怪人物の蠅男でいらっしゃるわけですか。ちょっと伺いますが、本当の蠅男さんですか。まさか蠅男の人気を羨《うらや》んで、蠅男を装っているてえわけじゃありますまいネ」
電話器の向うでは、せせら嗤《わら》う声が聞えた。帆村はソッと腕時計を見た。話をはじめてから、まだ四十秒!
「オイ帆村君。君は美しい
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