令嬢糸子さんと、俺の手紙とをたしかに受取ったろうネ」
「ええどっちとも、確かに」
「ではあのとおりだぞ。貴様はすぐにこの事件から手を引くんだ。俺を探偵したり、俺と張り合おうと思っても駄目だからよせ。糸子さんは美しい。そして貴様が約束を守れば、俺はけっして糸子さんに手をかけない。いいか分ったろうな」
「仰有《おっしゃ》ることはよく分りましたよ、蠅男さん。しかし貴下は人殺しの罪を犯したんですよ。早く自首をなさい。自首をなされば、僕は安心をしますがネ」
「自首? ハッハッハッ。誰が自首なんかするものか。――とにかく下手《へた》に手を出すと、きっと後悔しなければならないぞ」
「貴方も注意なさい。警察では、どうしても貴方をつかまえて絞首台へ送るんだといっていますよ」
「俺をつかまえる? ヘン、莫迦にするな。蠅男は絶対につかまらん。俺は警察の奴輩《やつばら》に一泡ふかせてやるつもりだ。そして俺をつかまえることを断念させてやるんだ」
「ほう、一泡ふかせるんですって。すると貴方はまだ人を殺すつもりなんですね」
「そうだ、見ていろ、今夜また素晴らしい殺人事件が起って、警察の者どもは腰をぬかすんだ。誰が殺されるか。それが貴様に分れば、いよいよ本当に手を引く気になるだろう」
「一体これから殺されるのは誰なんです」
「莫迦《ばか》! そんなことは殺される人間だけが知ってりゃいいんだ」
「ええッ。――」
「そうだ、帆村君に一言いいたいという女がいるんだ。電話を代るからちょっと待っとれ」
「な、なんですって。女の方から用があるというんですか――」
 帆村はあまりの意外に、強く聞きかえした。そのとき電話口に、蠅男に代って一人の女が現われた。
「ねえ、帆村さん」
「貴女《あなた》は誰です。名前をいって下さい」
「名前なんか、どうでもいいわ。けさからあたしたちをつけたりしてさ。早く宝塚から……」
 とまで女がいったとき、帆村は向うの電話器のそばで、突然蠅男の叫ぶ声を耳にした。
「――し、失敗《しま》ったッ。オイお竜《りゅう》、警官の自動車だッ」
「えッ、――」
 ガラガラと、ひどい雑音が聞えてきた。怪しき女は受話器をその場に抛《ほう》りだしたものらしい。なんだか戸が閉まるらしく、バタンバタンという音が聞えた。それに続いて、ドドドドッという激しい銃声が遠くに聞えた。
「あ、機関銃だ!」
 帆村は愕然《がくぜん》として叫んだ。


   醒《さ》めたる麗人《れいじん》


 電話が切れて、不気味な機関銃の音も聞えなくなった。しかし帆村の耳底には、微《かす》かながらも確かに聞いた機関銃の響きがいつまでもハッキリ残っていた。
 機関銃の響きを聞いて、帆村が愕然《がくぜん》とするのも無理ではなかった。
 忘れもせぬ十二月二日、鴨下ドクトルの留守邸に、焼ける白骨屍体を発見したあの日、何者かの射つ機関銃のために、彼帆村は肩に貫通銃創《かんつうじゅうそう》をうけたではないか。だから機関銃と聞けば、ために全身の血が俄《にわ》かに逆流するのもことわりだった。
 あの機関銃は、一体どっちが撃ったのであろうか。
 警官隊であろうはずがない。
 すると、機関銃はたしかに蠅男と名乗る電話の人物がぶっ放したものとなる。
 機関銃と蠅男!
「うむ、やっぱりそうだったか」
 帆村は呻《うな》るように云った。
 鴨下ドクトル邸に於て、彼を機関銃で撃ったのは、紛《まぎ》れもなく蠅男だったにちがいない。蠅男はあの日、ドクトル邸の二階に隠れていて、そこへ上ってきた彼を撃ったのにちがいない。
「そうか。――すると蠅男と僕とは、すでに事件の最初から血|腥《なまぐさ》い戦端をひらいていたんだ。そういうこととは今の今まで知らなかった。うぬ蠅男め、いまに太い鉄の棒をはめた檻《おり》のなかに入れてやるぞ」
 帆村は切歯扼腕《せっしやくわん》して口惜しがった。
 凶暴な機関銃手があの蠅男だということに決まれば、彼は事件をもう一度始めから考え直さねばならないと思った。
 それから今の電話によって、もう一つ新しく知った事実があった。それは蠅男がいつも一人で居るのかと思ったのに、今の電話で、蠅男には連れの人物があることが分った。
 それは年若い女性だった。
(し、失敗《しま》ったッ。オイお竜《りゅう》!)
 たしかにお竜――と蠅男は呼んだ。
 そのお竜のことであるが、彼女は何か帆村に云いたがって電話に懸ったが、僅か数語しか喋らないうちに、蠅男が警官隊の襲来を知らせたので、話はそのままに切れた。
 だがその短い数語によって、彼女は何者かということがハッキリ分ったような気もする。
(けさから、宝塚であたしたちをつけて……)
 といったが、今朝から宝塚でつけた女といえば、あの池谷医師の連れの女の外ないのである。あれがお竜にちが
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