左手で書っきょりました」
 帆村は呻《うな》った。色眼鏡に長い外套、そして襟を立ててブルブル慄えている顔色の青い男だというのである。それはたしかに怪しい人物だ。
「なにか荷物を持っていなかった?」
「さよう、持っていましたな。大きなトランクだす。洋行する人が持って歩くあの重いやつでしたな。自動車から下ろすときも、ボーイたちを叱りつけて、ソッと三階へ持ってあがりましたがな」
「ほう、大きなトランク?」
 帆村はハッと息をのんだ。
「そいつだ。そいつに違いない。その井上氏の部屋に案内して呉れたまえ」


   蠅男の奇略《きりゃく》


「えッ、――」
 と、帳場氏は、帆村の勢いに驚いて身をすさった。
「なにがそいつ[#「そいつ」に傍点]だんネ」
「そいつが恐るべき蠅男なんだ。僕にはすっかり分ってしまった。早くそいつ[#「そいつ」に傍点]の部屋へ案内したまえ」
「へえ、あの蠅、蠅男! あの殺人魔の蠅男だっか。ああそういわれると、どうも奇体な風体《ふうてい》をしとったな。気がつかんでもなかったんやけれど、まさかそれが蠅男だとは……」
「愕くのは後でもいい。さあ早くその井上一夫の部屋へ――」
 帆村はジリジリして帳場氏の腕をつかんだ。
 帳場氏はそれに気がついて、
「ああ、その人やったら、今はお留守だっせ」
「ナニ留守だッ。どうしたんだ、その男は」
「いえーな。ちょっと宝塚の新温泉へ行ってくるいうて出やはりました」
「それは何時だ」
「来て間もなくだっせ。ちょうどあの西洋封筒を拾ったすぐ後やったから、あれで午後の四時十分か十五分ごろだしたやろな」
「うーむ、そいつだ。いよいよ蠅男に極《きま》った。分ったぞ分ったぞ」
「あンさんにはよう分ってだすやろが、こっちには一向腑に落ちまへんが」
「いや、よく分っているのだ。僕の云うことに間違いはない。さあ早く、その井上氏の部屋へゆこう、部屋の鍵を持ちたまえ」
 帆村は厳然たる自信をもって、帳場氏に命令するようにいった。そして彼は真先にたって、エレヴェーターのなかに躍りこんだ。帳場氏も、いまは帆村の言葉にしたがってついてゆくより外に仕方がなかった。
 エレヴェーターを四階で停めて、帆村は大川主任のところへ行った。そして、一部始終を手短かに話し、主任の応援と命令とを乞うた。
「ええッ。蠅男がこのホテルに入りこんどる。それはほんまかいな。ほんまなら、こらえらいこっちゃ」
 部長の顔色もサッと青褪め、すこぶる緊張した。
 糸子の部屋には一人の警官を置いて、あとの三人は、急いで三階に駈け下りた。そして目ざす井上一夫の部屋第三三六室に近づいていった。
 いざとなれば、たとい留守にしても、蠅男のいた部屋を開けるというのは、たいへん覚悟の要ることだった。三人はめいめいに腋《わき》の下から脂汗を流して、錠前の外れた扉に向って身がまえた。帆村はソッと扉を押した。
 そして素早く手を中に入れて、電灯のスイッチ釦《ボタン》を押した。パッと室内灯がついた。
 三人は先を争って、部屋の中を見た。
「ウム、あるぞ、トランクが……」
 部屋のなかには、誰の姿も見えず、ただ大きなトランクだけがポツンと置き放されてあった。
「さあ、このトランクを開けてみましょう」
 帆村は主任の許しをえて、持ってきた彼の秘蔵にかかる錠前外しでもって、鍵なしでドンドン錠を外していった。
 錠前はすべて外《はず》れた。ものの二分と懸らぬうちに――
 大川主任は唖然《あぜん》として、帆村の手つきに見惚《みと》れていた。
「さあ、トランクを開きますよ」
 帆村はトランクの蓋に手をかけるなり、無造作にパッと開いた。「あッ、空っぽや」
「ウム、僕の思ったとおりだッ」大トランクの中は、果然《かぜん》空っぽであった。帆村は、そのトランクの中に頭をさし入れて、底板を綿密にとりしらべてみた。
「ああこんなものがある」
 帆村はトランクのなかから、何物かを指先に摘みだした。
 それは細いヘヤピンであった。彼はそれをソッと鼻の先へもっていった。
「ああピザンチノだ。南欧の菫草《すみれそう》からとれるという有名な高級香水の匂いだ、全く僕の思った通りだ。糸子さんはこの香水をつけている。するとこのトランクに糸子さんが入っていたと推定してもいいだろう。糸子さんはこのトランクのなかに入れられてこのホテルに搬びこまれたのだ」
「えッ、あの糸子はんが――へえ、そら愕いたなア」
 大川主任と帳場氏は、互いの顔を見合わせて愕いたのであった。そこで帆村は、二人に対し、蠅男の演じた奇略《トリック》をひととおり説明した。前後の様子から考えると、蠅男は三輪車を奪ってから、大胆にもこの宝塚にひきかえしたのだった。そして彼は多分池谷別邸のなかに幽閉されていたろうと思われる糸子に麻酔剤を嗅がせた上、こ
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