して拾ったのである。彼がその棒について、もっと深い興味をもっていたとすれば、それだけでも蠅男の正体を掴む余程の近道とはなったであろうに、流石《さすが》の帆村探偵も早くいえば蠅男をそれほどの怪人物だとは思っていなかったせいであろう。
なにもそれは帆村探偵だけのことではない。世間では誰一人として、蠅男が過去にも未来にも絶するそのような奇々怪々なる人間だとは、気がついていなかったのだ。蠅男こそは有史以来二人とない怪人だったのである。さて、いかなる怪人であったろうか。それを知るのは、極《ご》く小数の人々だけだった。しかも彼等は蠅男の正体を語るを好まないか、またはそれを語ることができない事情の下にあった。
だから目下のところ読者諸君はやむなく、村松検事以下の検察当局の活動と、青年探偵帆村荘六の闘志とに待つよりほかに蠅男の正体を知る手がないのである。
鬼か人か、神か獣か?
蠅男の正体が、白日下に曝《さら》されるのは何時の日であろうか。
意外なる邂逅
有馬温泉の駐在所における何時聞かの前後不覚の睡眠に帆村もすこしく元気を回復したようであった。
彼はそれから先の行動を、あれやこれやと考えた挙句、遂に決心して一台の自動車を呼んで貰った。
やがて遠くからクラクションの響きが伝わってきたと思ったら、頼んであった自動車が家の前に来て停った様子、帆村は味噌問屋の小僧さん長吉《ちょうきち》を促して、警官たちに暇をつげるなり車上の人となった。
温泉町は、もうすっかり夜の闇に沈んでいた。硫黄の強い匂いをのせた風が、スーッと流れて来た。帆村は急に、温い湯につかって疲労を直したい衝動に駆られた。
しかし彼は、すぐそのような衝動をなげすてていた。これから蠅男との戦闘が始まるのである。玉屋総一郎の忘れ形身の糸子はどこにどうしているのだろう。彼女は果して安全に身を護っているのだろうか。池谷邸に入ったまま、姿を消して杳《よう》として行方が知れなくなったこの麗人の身の上を、帆村はすくなからず憂慮しているのだった。池谷邸の二階の窓に、糸子を背後から襲った怪人こそは、あれはたしかに蠅男に違いない。蠅男は糸子をどんな風に扱ったのであろうか。
帆村が疲れ切った身体を自ら鼓舞《こぶ》して、再び車で宝塚へ引返そうと決心したのも、直接の動機はこの可憐《かれん》なる糸子の安危をたしかめたいことにあった。彼女の父親を、蠅男から護ろうと努力していながら、遂に蠅男のためにしてやられ、糸子を孤児にしてしまった。その責任の一半は、帆村自身にあるように思って、彼はこの上は、自分の生命にかけて蠅男を探しだすと共に、糸子を救いださねばならないと決心しているのだった。
暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。
そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。
ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。
なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。
「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」
「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」
「はアはア、そうでっか、お惚《のろ》け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」
「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」
「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図《ふと》思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」
「ナニ手紙?」
帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。
帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。
扉の前に立って、念のために把手《ハンドル》を廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。
なぜ帆村は、そんなことを検《ため》してみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。
扉には錠が懸っている。
まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚《びっくり》させられよ
前へ
次へ
全64ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング