リンリンリンと電話が懸ってきた。駐在所の警官が出た。
「ああ村松検事どのでございますか。はア帆村さんはいらっしゃいます」
 帆村は疲れを忘れて、電話口へ飛びついた。彼は村松検事に、今日の顛末《てんまつ》を手短かにのべて、盗まれた三輪車と蠅男の手配をよく頼んだ。そして電話が切れるとグッタリとして、駐在所の奥の間に匍いこむなり、疲れのあまり死んだようになって睡った。樽の上で踊った長吉もお招伴《しょうばん》をして、帆村の側らにグウグウ鼾《いびき》をかいた。それから何時間経ったか分らないが、帆村は突然揺り起された。
「また村松検事どのから、お電話だっせ」
 帆村は痛む手足のふしぶしを抑えながら、電話口に出た。そのとき彼は、愕《おどろ》きのあまり目の覚めるような知らせを、村松検事から受けとった。
「ええッ、本当ですか。今日の夕刻、鴨下ドクトルが奇人館にひょっくり帰ってきたんですって? ほほう、貴方はもうドクトルが永久に帰ってこないと仰有っていましたのにねエ。ほほう、そうですか。いやそれは僕も愕きましたよ、ほほう」


   蠅男の正体?


 鴨下《かもした》ドクトルが八日目にひょっくり、奇人館に帰ってきたという知らせである。
 帆村の愕《おどろ》きもさることながら冷静をもって聞えるあの村松検事でさえ、その愕きを電話口に隠そうとさえしなかったほどだ。検事は、鴨下ドクトルが再び館にかえって来ないと断言したくらいだから、ドクトル帰邸の知らせは全く寝耳に水の愕きだったのだろう。鴨下ドクトルは何処に行っていたのだろうか。
 娘を東京から呼んでおきながら約束を破ってドクトルが旅行に出たのは何故だろう。
 それからまた、ドクトルの留守中に、突然何者とも知れぬ男の屍体が焼かれ、機関銃手がとびだしたりしたことに果してドクトルは無関係だったのだろうか。
 蠅男の脅迫状は、なぜドクトル邸の暖炉の上に置かれてあったのだろう。
 そういう疑問のかずかずが、鴨下ドクトルの口から聞きただされる時機が来たのだ。ドクトルの答によって蠅男の正体はいよいよ明らかになるであろう。帆村探偵は大阪へ帰って、検事たちから聞くことができるであろうドクトルの告白に、非常な期待をおぼえたのであった。
「だが、蠅男を見たのは、恐らく捜査側では自分だけだろう」
 帆村は、そのことについて些《いささ》か得意であった。それは実に大きな土産話である。
 蠅男というやつは、実に力の強い奴で、三貫目の味噌樽を、あたかも野球のボールを叩きつけるように楽々と抛《な》げた。そして自動車も操縦できれば三輪車にも乗れるというモダーン人だ。
 しかしよく考えてみると、蠅男について分っているのはそれだけであった。どんな身体つきをしているのか、それは黒い吊鐘マントの下に蔽われていてハッキリ分らない。それからまたどんな容貌をしているのか、それは防毒面みたいなものを被っているので、これもハッキリ分らない。ただ気味のわるい二つの眼がギロギロと動くのを見たばかりである。
 いや、もっと分らないところがある。帆村はさきに玉屋総一郎の殺された密室を調べた挙句、蠅男について次のような推理をたてた。つまり、
「蠅男の背丈は八尺である。そして蠅男は一升|桝《ます》ぐらいの四角な穴を自由に出入する人間である」
 というのであるが、崖上に見たあの蠅男は、五尺四、五寸しかない普通の人間の背丈に見えた。況《いわ》んや一升桝の間を抜けるような細い身体のようには見えなかった。すると、あれは蠅男でなかったのであろうか。いや、あの崖上の怪人物が蠅男でなくて、誰が蠅男であろうか。すると身長八尺で一升桝ぐらいの穴もくぐれる人物という帆村の推理が合わないことになる。
「これは、どうも自分の推理が間違っていたのかナ、違うはずはないんだが」
 帆村探偵の自信は俄《にわ》かにグラつきだした。彼は遂に、眼から入ってきた蠅男の姿に、幻惑《げんわく》されてしまったのである。深い常識のために、推理の力を鈍らせてしまったのである。これは後になって、ハッキリと分った話であるが、蠅男に対する彼の推理は決して間違っていなかったのだ。帆村はもっと考えるべきだった。ここで玉屋総一郎の屍体の頸部《けいぶ》に附いていた奇妙なる金具のギザギザ溝《こう》の痕をなぜ思い出さなかったのだろう。玉屋総一郎の頸部に打ちこんだ鋭い兇器がどんなものであって、どこの方角からどうして飛んできたものかを、何故考えなかったのだろう。それからまた池谷医師たちが宝塚新温泉の娯楽室から持ちだした一銭活動のフィルム「人造犬」のことをなぜ連想しなかったんだろう。いや、まだある。現に彼は今、有馬温泉の駐在所に寝ころがっているが、その枕許に置いてある奇妙な形をした一本の鋼鉄棒がある。彼はそれを池谷邸に近い林の中で護身用と
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