うとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つ距《へだ》てた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。
帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。
扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。
帆村は、手さぐりでそのスイッチの押し釦《ボタン》を探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。
パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、
「呀《あ》ッ!」
といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。
「もしや部屋を間違えたのでは……」
と、咄嗟《とっさ》に疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。
さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。
帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。
「……実弾はたしかに入っている!」
こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。
ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。
帆村は遂に意を決した。彼は呼吸《いき》をつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?
ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?
帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。
「おお――糸子さんだッ」
謎! 謎!
なんという思いがけなさであろう。
自分のベッドの上に長々と寝ている怪人物は何者だろう。それは気味の悪い屍体でもあろうかと、胸おどらせて夜具を剥いでみれば意外にも意外、麗人《れいじん》糸子の人形のような美しい寝顔が現われたのである。これは一体どうしたことであろう。
ベッドの上の糸子は死んでいるのではなかった。目覚めこそしないが、落ついた寝息をたててスヤスヤと睡っているのであった。その蝋《ろう》のように艶のある顔は、いくぶん青褪めてはいたけれど、形のいい弾力のある唇は、まるで薔薇の花片《はなびら》を置いたように紅《あか》かった。
帆村の魂は恐怖の谷からたちまち恍惚の野に浮き上り、夢を見る人のようにベッドの上の麗人の面にいつまでも吸いつけられていた。
「なぜだろう?」
帆村は、解けない謎のために、やっと正気に戻った。夢ではない、糸子が彼の部屋のベッドの上に寝ているのは厳然たる事実だ。厳然たる事実なれば、この大きい意外をもたらした事情はどういうのだろう。それを知らなければならない。
彼は帳場へ電話をかけようかと思って、それに手を懸けた。けれどそのとき不図《ふと》気がついて懐中《ふところ》を探った。
出て来たのは、一通の西洋封筒だった。さっき帳場で渡されてきた宛名も差出人の名前もない変な手紙だ。
彼はそっと封筒をナイフの刃で剥《は》がしてみた。その中からは新聞紙が出て来た。新聞紙を八等分したくらいの小さい形のものだった。
新聞紙が出て来たと見るより早く、帆村は蠅男の脅迫状を連想した。拡げて調べてみると、果然活字の上に、赤鉛筆で方々に丸がつけてある。これを拾って綴ってゆくと、文章になっていることが分った。
「ウム、やはり蠅男の仕業だな」
赤い丸のついた字を拾ってゆくと、次のような文句になった。
「――この事件カラただちに手をひケ、今日まデワ大メに見テやる、その証コに、イと子を安全に返シテやる、手を引カネバ、キサマもいと子も皆、いのちがナイものと覚悟セヨ、蠅男より、ほムラそう六へ――
果然、蠅男からの脅迫状だった。
帆村探偵に、この事件から手を引かせようという蠅男の魂胆だった。
帆村は、この新聞紙に赤丸印の脅迫状を読んでいるうちに、恐怖を感ずるどころかムラムラと癪《しゃく》にさわって来た。
「かよわい糸子さんを威《おど》かしの種に使おうなんて、卑怯千万な奴だ」
それに
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