うん、失敗《しま》ったッ」
帆村の叫んだときはもう遅かった。北側の窓のところに駈けつけてみると、目の下に自動車は静かに動きだしたところだった。裏口の木戸が開かれている。誰かその木戸から出ていって自動車にのったに違いない。そして帆村は見た。その幌型《ほろがた》の自動車の運転台に、黒い服を身にまとった人物が腰をかけていたのを。
その人物こそ、さっき二階で、糸子をカーテンのなかに引ずりこんだ怪人に相違なかった。彼はいま自動車にソッとうちのり、何方へか逃げようとしているのだ。黒い服の人物は何者? 不幸にして帆村は、彼の後姿を肩のあたりにだけ認めたばかりであって、怪人物の顔を見ることはできなかった。
しかし彼こそ、恐るべき脅迫状の送り主「蠅男」なのではあるまいか。いや、それともこの家の主人である池谷医師でもあったろうか。いずれにしても帆村は、その自動車に乗った人物を逃がしてはならないと思った。
糸子のことも気がかりであったけれど、怪人物の行方はさらに重大事であった。それにまた、怪人物は自由を失った糸子をその自動車に無理やりに積みこんで、共に逃げていくところだったかも知れないのである。ここはどうしても怪人の跡を追うのが正道であった。帆村は階段を転げ落ちるようにして、足袋はだしのまま裏口から、自動車の後を追いかけた。
山中の追跡
幸いにも、池谷控家の裏通りは道が狭かったから、自動車はスピードをあげることができないで、タイヤが溝《みぞ》のなかに落ちるのを気にしながらノロノロと動いていた。帆村はそれと見るより、百メートルほど後方から猛烈にダッシュしていった。それが分ったものか、自動車はスピードをすこし早めた。自動車は生垣にゴトンゴトンとつきあたって、今にも幌が裂けそうに見えた。それにも構わず、無理なスピードを懸けていった。
帆村は懸命にヘビーをかけた。もうすこしで自動車のうしろに飛びつける。――と思った刹那《せつな》、自動車はガタンと車体をゆすって頭を右にふった。広い舗道へ出たのだ。
「うぬ、待てエ」
帆村は激しい息切れの下から、ふりしぼるような声で叫んだ。しかしそれは既に遅かった。自動車はわずかのちがいで、舗道に乗った。そして帆村を嘲笑するかのように悠々とスピードをあげて走っていく。
帆村は文字どおり切歯扼腕《せっしやくわん》した。もうこうなっては、残念ながら人間の足では競争が出来ない。
何か自動車を追跡できるような乗り物はないか。
そのとき不図《ふと》前方を見ると、路地のところから鼻を出しているのは紛《まぎ》れもなくオートバイだった。これはうまいものがある。帆村は躍りあがってそこへ飛んでいった。
それはオートバイと思いの外《ほか》、自動《オート》三輪車であった。それは大阪方面の或る味噌屋《みそや》の配達用三輪車であって、車の上には小さな樽がまだ四つ五つものっていた。そして丁度そのとき店員が傍の邸の勝手口から届け票を手にしながら往来へでてきたので、帆村は早速その店員のところへ駆けよった。
そこで口早に、車を貸してもらいたいという交渉が始まった。店員は目をパチクリしているばかりだった。なにしろ犯人追跡をやるんだから、ぜひ貸してくれといったが、店員は主人に叱られるからといって承知しなかった。そのうちにも時刻はドンドン経っていく。千載の一遇をここで逃がすことは、とても帆村の耐えられるところでなかった。
(問答は無益だ!)
帆村は咄嗟《とっさ》に決心をした。隙《すき》だらけの店員の顎《あご》を狙って下からドーンとアッパーカットを喰わせた。店員は呀《あ》ッともいわず、地上に尻餅をつくなり長々とのびてしまった。
「済まん済まん。あとから僕を思う存分殴らせるから、悪く思わんで……」
と、心の中で云いすてて、帆村は車の上にまたがった。そしてエンジンを懸けて走りだそうとしたが、彼はこのときなにを思ったものか、また地上に下りて、伸びている店員先生を抱き起した。
活を入れると、店員先生はすぐにウーンと呻りながら気がついた。それを見るより、帆村は店員先生を背後から抱えて、車の後部に積んだ味噌樽の上に載せた。
このとき店員先生はやっと、この場の事情を知った。
「こら、何をするんや、泥棒!」
拳骨を喰うわ、車は取られるわ、この上車の上に載せられようとする。彼は憤慨の色を浮べるより早く、帆村に喰ってかかるために樽の上に立ち上ろうとした。
帆村は早くもこれに気づいた。
「まあ落つけ」
彼は一言そう云ってヒラリと車に跨《またが》ると、素早くクラッチを踏んだ。自動《オート》三輪車は大きく揺れると、弾かれたように路地から走りだした。
「ああッ、あぶないあぶない」
店員先生は樽の上に立ちあがろうとしたが、たちまち車が走りだしたも
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