ので、車からふり落とされそうになった。それでまた屁ッぴり腰をして樽の上に蹲《かが》み、そして車からふりおとされないために顔を真赤にして一生懸命荷物台に獅噛《しが》みついた。
「こら、無茶するな、泥棒泥棒」
「そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴《どな》るんだ」
「ええッ」と店員先生は怪訝《けげん》な顔をしたが、「おお皆来てくれ、泥……」
といいかけて首をかしげた。
「こら妙なこっちゃ。この泥棒野郎が車を盗みよって、乗り逃げしてるのや。しかしその車の上にはチャンと俺が載っているのや。すると俺は車を盗まれたことになるやろか、それとも盗まれてえへんことになるやろか、一体どっちが本当《ほんま》やろか、さあ訳がわからへんわ」
ゴトゴトする樽の上に店員先生が車を盗まれたのかどうかということを一生懸命考えている間に、帆村は眼を皿のようにして前方に怪人の乗った自動車をもとめて自動三輪車を運転していった。
怪人の自動車は、道を左折して橋を渡ったものらしい。
温泉場の間を縫って狂奔していく三輪車に、湯治の客たちは胆をつぶして道の左右にとびのいた。
帆村は驀地《まっしぐら》に橋の上をかけぬけた。それから山道に懸ったが、やっと前方に怪人の乗った自動車の姿をチラと認めた。
「うむ、向うの方へ逃げていくな」
道が悪くて、軽い車体はゴム毯《まり》のように弾《はず》んだ。そのたびごとに、樽の上に御座る店員先生は悲鳴をあげた。
「モシ、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃん。この道はどこへ続いているんだね」
暴風雨《あらし》のような空気の流れをついて、帆村が叫んだ。
「この道なら、有馬へ出ますわ。お店と反対の方角やがナ」
店員先生が、半泣きの声で答えた。
「うむ、有馬温泉へ出るのか。――あと何里ぐらいあるかネ」
「そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ」
「二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ」
帆村の姿と来たら、実にもう珍無類《ちんむるい》だった。これはあまりにも勇ましすぎた。若い婦人に見せると、気絶をしてしまうかも知れない。なにしろ、正面からの激しい風を喰《くら》って、どてらの胸ははだけて臍《へそ》まで見えそうである。その代り背中のところで、どてらはアドバルーンのように丸く膨《ふく》らんでいた。ペタルの上を踏まえた二本の脚は、まるで駿馬《しゅんめ》のそれのように逞《たくま》しかったが、生憎《あいにく》とズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらの禍《か》をくりかえしくりかえし後悔していた。
現われた蠅男
帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛《しが》みついたまま、もう泥棒などとは喚《わめ》かなかった。
「おう、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃんよオ」
帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
「なんや、俺のことか」
「君、何か書くものを持っているだろう」
「持ってえへんがな」
「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」
帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
「その紙片をどないするねン」
「ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」
「誰が字を書くねン」
「あん[#「あん」に傍点]ちゃんが書いておくれよ」
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
「なんでもいい。是非《ぜひ》書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」
これが店員先生に頗《すこぶ》る利いた。
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてら[#「どてら」に傍点]の先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
帆村は向うを向いて苦笑いをした。
「君の名は何という」
「丸徳商店の長吉だす」
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」
「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの
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