隆夫のたましいは失望した。
「すると、人ちがいなのだろうか」
すっかり悲観したが、なお、あきらめかねて隆夫のたましいは男の上をぐるぐるとびながら、彼のすることを見守っていた。
男は、木乃伊《ミイラ》のように動かなかった。棕梠の木に背中をもたせかけたままであった。ところが一時間ばかりした後、その男はすこし動いた。彼は座り直した。片坐禅《かたざぜん》のように、片足を手でもちあげて、もう一方の脚の上に組んだ。それから両手を軽く握り目をうすく開いて、姿勢を正した。彼はたしかに無念無想の境地《きょうち》にはいろうとしているのが分った。隆夫のたましいは、これはなにか変ったことが起るのではないかと思い、ふわふわとびまわりながら、いっそう相手に注意をはらっていた。
すると、その男の頭のてっぺんのすぐ上に、ぼーッとうす赤い光の輪が見えだした。ふしぎなことである。隆夫のたましいは、まわるのをやめて、それを注視《ちゅうし》した。
ふしぎなことは、つづいた。こんどは男の上半身の影が二重になったと見えたが、その一つが動き出して、ふわりと上に浮いた。それはシャボン玉を夕暗《ゆうやみ》の中にすかしてみたように、全体がすきとおり、そして輪廓《りんかく》だけがやっと見えるか見えないかのものであり、形は海坊主《うみぼうず》のように、丸味をおびて凸凹《でこぼこ》した頭部《とうぶ》とおぼしきものと、両肩に相当する部分があり、それから下はだらりとして長く裾《すそ》をひいていた。また、頭部には二つ並んだ目のようなものがあって、それが別々になって、よく動いた。しかしその目のようなものは、卵をたてに立てたような形をし、そしてねずみ色だった。
「おお、隆夫か。どうしたんだ、お前は」
と、そのあやしい海坊主はいって、隆夫のたましいの方へ、ゆらゆらと寄ってきた。
「あ、やっぱり、お父さんでしたか」
隆夫のたましいは、海坊主みたいなものが、父親治明博士のたましいであることに気がついた。
ああ、なんというふしぎなめぐりあいであろう。祖国を遠くはなれたこのアドリア海の小さい港町で、父と子が、こんな霊的《れいてき》なめぐりあいをするとは、これが宿命《しゅくめい》の一頁で、すでにきまっていたこととはいえ、奇遇中《きぐうちゅう》の奇遇といわなくてはなるまい。
「お父さん。よく生きていて下さいました。親類でもお父さんのお友だちも、ほとんど絶望して、お父さんはもう生きてはいないだろうと噂しているんですよ。よく生きていて下すったですね」
隆夫のたましいは、うれしさいっぱいで、父親のたましいにすがりついた。
「うん、みんなが心配しているだろうと思った。しかし知らせる方法もなかった。それにわしとしても、明日生命を失うか、あるいは一時間後、十分後に生命を失うかも知れず、おそろしい危険の連続だった。いや、今も安心はしていられないのだ。それはいいが、お前はどうしたんだ。さっきから、いぶかしく思っているんだが、お前の肉体はどこにあるんだ」
父親は、心配の様子。
慈愛《じあい》ふかい父親の心にふれると、隆夫のたましいは、悲しさの底にしずんで、
「お父さん。聞いて下さい。こうなんです」
と、これまでに起ったことを、父親に伝えたのであった。
霊魂《れいこん》の研究者
すべての事情を、隆夫のたましいから聞きとった父親治明博士のたましいは、大きなおどろきの様子を示した。
「それは、実におそるべき相手だ。そういうひどいことをする霊魂は、尋常一様《じんじょういちよう》のものではないよ。たいへんな力を持っている奴だ。これはかんたんには行かないぞ。いったい何者だろう」
父親のおどろきが、意外に大きいので、こんどは隆夫の方でおどろいてしまった。しかしこのとき隆夫は、父親のおどろきとなった素因《そいん》のすべてを知っているわけではなかった、披は、まだ霊魂界のことについては、ほんのわずかのことしか知らないのであった。
「お父さん。そんなに、あの霊魂は、おそるべき奴ですか。ぼくには、何もかも、さっぱり分らないのです。いったい、霊魂というものが出たり、はいったりするのは、どういう法則に従うものでしょうか。いや、それよりも、ぼくは霊などというものが、ほんとにあることを、こんどはじめて知ったのです。お父さんは、それについて、くわしく知っているようですね」
隆夫のたましいは、次から次へとわきあがる疑問やおどろきを、父親の前にならべたてた。
「霊魂の学問は、なかなか手がこんでいるんだ。つまり複雑なのだ。古い時代にいいだされたでたらめ[#「でたらめ」に傍点]の霊魂説から始まって、最新の霊魂科学に至るまで、実に多数の霊魂説があるのだよ。わしは、お前も知っているとおり、生化学《せいかがく》と物質構造論《ぶっしつこうぞうろん》などの方からはいりこんで、新しい霊魂科学の発見に努力して来た。その結果、わしは、霊魂なるものは、たしかに存在することを証明することができた。そればかりでなく、こうして実際に霊魂を活動させることにも成功した。そこでわしは、さらに深く霊魂科学の研究をしようと今も努力しているわけだが、残念なことに戦火に追われて、研究室をうしない、それからさすらいの旅がはじまり、いろいろな困難や災害にあって、こんなひどい姿で食《く》うや食わずの生活をつづけている始末だ。ああ、わしは、早く落ちついた研究室にはいりたい。むしろこの際、日本へ帰るのが、その早道だとも思い、こうして機会を待っているわけなんだ」
父親治明博士のたましいは、これまでの経過をかいつまんで話した。
「普通に、たましいというとね、肉体にぴったりついているものだが、ある場合には、肉体をはなれることもあるんだ。肉体のないたましい[#「たましい」に傍点]というものも、実際はたくさんごろごろしている。そういうたましいが、肉体を持っている別のたましいに、とりつくことがよく起る。お前がさっき、わしに話をして聞かせた名津子《なつこ》さんの場合なんか、それにちがいない。つまり、名津子さんの肉体といっしょに居る名津子さんのたましいの上に、あやしい女のたましいが馬乗りにのっているんだと考えていい。二つのたましいは、同じ肉体の中で、たえず格闘《かくとう》をつづけているんだ。だから名津子さんが、たえず苦しみ、好きなことを口走るわけだ」
「なるほど、そうですかね」
「名津子さんの場合は、普通よくあるやつだ。しかしお前の場合は、非常にかわっている。お前を襲撃《しゅうげき》した男のたましいは、お前の肉体からお前のたましいを完全に追い出したのだ。そういうことは、普通、できることではないのだ。だから、さっきもいったように、その男のたましいなるものは、非常にすごい奴にちがいない。いったい、何奴《なにやつ》だろう」
治明博士は、再びおどろきの色をみせて、そういった。
隆夫のたましいは、父親のいうことを聞いていて、なんだか少しずつわけが分ってくるように思った。と同時に、また別のいろいろの疑問がわいてきた。ことに、彼が信用しかねたものは、たましいの姿のことであった。目の前に見る父親のたましいは、海坊主が白いきれを頭からかぶって、それに二つの目をつけたような姿をしている。ところが、隆夫の実験小屋へはいって来て、彼のたましいを追い出し、彼の肉体を奪《うば》った怪物は、ちゃんと男の姿をしていた。同じたましいでありながら、なぜこのように、姿がちがうのであろうか。この疑問を、父親にただしたところ、父親のたましいは、次のように答えた。
「たましいというものはね。たましいの力|次第《しだい》で、いろいろな形になることが出来る。実は、本当は、たましいには形がないものだ。まるで透明なガス体か、電波のように。が、しかし、たましいには個性《こせい》があるので、なにか一つの姿に、自分をまとめあげたくなるものだよ。これはなかなかむずかしい問題で、お前にはよく分らないかも知れないが、お前は、自分で知っているかどうかしらんが、お前はおたまじゃくしのような姿をしているよ。つまり日本の昔の絵草紙《えぞうし》なんかに出ていた人間と同じような姿なんだ。これはお前が、たましいとは、そんな形のものだと前から思っていたので、今はそういう形にまとまっているのだ」
「へえーッ、そうですかね」
と、隆夫は、はじめて自分のたましいの姿がどんな恰好《かっこう》のものであるかを知って、おどろき、且《か》つあきれた。
「それはいいとして、お前の肉体を奪った悪霊《あくれい》を、早く何とか片づけないといけない」
父親治明博士は苦しそうに喘《あえ》いだ。
城壁《じょうへき》の聖者《せいじゃ》
その夜、するどくとがった新月《しんげつ》が、西空にかかっていた。
ここはバリ港から奥地へ十マイルほどいったセラネ山頂にあるアクチニオ宮殿の廃墟《はいきょ》であった。そこには山を切り開いて盆地《ぼんち》が作られ、そこに巨大なる大理石材《だいりせきざい》を使って建てた大宮殿《だいきゅうでん》があったが、今から二千年ほど前に戦火に焼かれ、砕かれ、そのあとに永い星霜《せいそう》が流れ、自然の力によってすさまじい風化作用《ふうかさよう》が加わり、現在は昼間でもこの廃墟に立てば身ぶるいが出るという荒れかたであった。
しかも今宵《こよい》は新月がのぼった夜のこととて、崩《くず》れた土台やむなしく空を支《ささ》えている一本の太い柱や首も手もない神像《しんぞう》が、冷たく日光を反射しながら、聞えぬ声をふりしぼって泣いているように見えた。
一ぴきの狼が突如として正面に現われ、うしろを振返ったと思うと、さっと城壁のかげにとびこみ、姿を消した。いや、狼ではなく、飢えたる野良犬《のらいぬ》であったかも知れない。その犬とも狼ともつかないものが振返った方角から、ぼろを頭の上からかぶった男がひとり、散乱《さんらん》した円柱や瓦礫《かわら》の間を縫って、杖をたよりにとぼとぼと近づいてきた。
彼は、たえず小さい声で、ぼそぼそと呟《つぶや》いていた。
「……しっかり、ついてくるんだよ、わしを見失っては、だめだよ。……もうすぐそこなんだ。多分見つかると思うよ。アクチニオ四十五世さ。新月の夜にかぎって、廃墟の宮殿の大広間に、一統と信者たちを従えて現われ、おごそかな祈りの儀式を新月にささげるのだよ。……隆夫、わしについてきているのだろうね。……そうか。おお、よしよし。もうすこしの辛抱だ。わしはきっとアクチニオ四十五世を探し出さにゃおかない」
と男は、杖をからんからんとならしながら、空に向って話しかける。
彼こそ、隆夫の父親の治明博士であったことはいうまでもない。彼は、奇《く》しきめぐりあいをとげた愛息《あいそく》隆夫のうつろな霊魂をみちびきながら、ようやくこれまで登ってきたのである。
隆夫のたましいは、どこにいる?
彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。
博士は、杖を鳴らしながら、廃墟《はいきょ》の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩《くず》れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙《かんげき》をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場《きとうじょう》をなおも探しまわった。どこもここも墓場《はかば》のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。
博士は、泣きたくなる心をおさえつけながらもよろめく足を踏みしめて、なおも廃墟の部屋部屋をたずねてまわるのだった。
「あ、あそこだ!」
とつぜん博士は身体をしゃちこばらせた。博士は目をあげて見た。そこは西に面した高い城壁の上であったが、あわい月光の下、人影とおぼしきものが数十体、まるで将棋《しょうぎ》の駒《こま》をおいたよ
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