うに並んでいるのであった。
だが、誰一人として動かない。何の声も聞えて来ない。明かり一つ見えない。
それでも、それがアクチニオ四十五世の一団《いちだん》であることを認めた。博士は急に元気づき、その方へ足を早めていった。博士は、間もなく高い壁に行方を阻《はば》まれた。が博士は、すこしもひるむことなく、城壁《じょうへき》の崩れかけた斜面《しゃめん》に足をかけ手をおいて、登りだした。
時間は分らないが、やっと博士は城壁を登り切った。二時間かかったようでもあり、三十分しかかからなかったようでもあった。
「ああ……」
博士は眼前《がんぜん》にひらける厳粛《げんしゅく》なる光景にうたれて、足がすくんだ。
城壁の上の広場に、約四五十人の人々が、しずかに月に向って、無言《むごん》の祈《いのり》をささげている。一段高い壇《だん》の上に、新月を頭上に架《か》けたように仰いで、ただひとり祈る白衣《はくい》の人物こそ、アクチニオ四十五世にちがいなかった。
博士は、すぐにも聖者《せいじゃ》の足許《あしもと》に駆《か》けよって、彼の願い事を訴えるつもりであったが、それは出来なかった。足がすくみ、目がくらみ、動悸《どうき》が高鳴って、博士はもう一歩も前進をすることが出来なかったのである。
博士は石床《いしどこ》の上にかけて、化石《かせき》になったように動かなかった。それから幾時間も動くこともできず、博士はそのままの形でいた。博士は気を失っていたのでも、睡っていたのでもない。博士はその間その姿勢ではとても見ることのできないはずの、聖なる新月の神々《こうごう》しい姿を心眼の中にとらえて、しっかりと拝《おが》んでいたのだ。
風が土砂《どしゃ》をふきとばし、博士の襟元《えりもと》にざらざらとはいって来た。どこかで鉦《しょう》の音がするようだ。
「顔をあげたがよい」
さわやかな声が、博士の前にひびいた。
はっと、博士は顔をあげた。
「あ、あなたはアクチニオ四十五世!」
ロザレの遺骸《いがい》
いつの間にか、聖者《せいじゃ》は博士の前に近く立っていた。ふしぎである。博士は、自分の現在の居場所を知るために、あたりに目を走らせた。依然《いぜん》として、同じ城壁の上に居るのであった。だが、アクチニオ四十五世のうしろに並んで新月《しんげつ》を拝んでいた同形《どうけい》の修行者たちはただの一人も見えなかった。残っているのは、聖者ただひとりであった。
「ああ、聖者……」
「分っている。わしについて来《きた》れ」
聖者は博士の願いについて一言も聞かず、自分のうしろに従《したが》い来れといったのだ。博士は、奇蹟に目をみはりながら、石床《いしどこ》をけって立った。聖者は気高く後姿を見せて、しずかに歩む。博士はその姿を見失うまいとして、後を追っていった。そのとき気がついたことは、新月は既に西の地平線に落ちて、あたりは濃い闇の中にあったことである。しかもふしぎに、聖者の後姿と、通り路とは、はっきり博士の目に見えているのだった。
博士は聖者アクチニオ四十五世について城壁の上をずんずんと歩いていくうちに、いつしかトンネルの中にはいっているのに気がついた。うす暗い、そして奥が知れない、気味のわるいトンネルであった。トンネルの道は、自然に下り坂になって、今歩いているところは既に地下へもぐってしまったらしく、ぷーンとかびくさい。
どこからともなく、黄いろのうす明りがさし、トンネルの中の有様を見せてくれる。トンネル内は、通路が主であるが、ところどころそれが左右へひろげられて大小の部屋になっていた。そしてその部屋には、土や石で築《きず》いた寝台のようなものがあり、壁にはさまざまの浮《う》き彫《ぼ》りで、絵画や模様らしきものや不可解《ふかかい》な古代文字のようなものが刻《きざ》まれてあった。
聖者はずんずんと奥へはいっていったが、そのうちに、一つの大きな丸い部屋のまん中に見えているりっぱな大理石の階段を下りていった。博士も、もちろんあとに従った。
「あ……」
博士は、階段を途中まで下りて、その下に見えて来た地下房《ちかぼう》の異様な光景に思わずおどろきの声を発した。
そこには、意外にも、たくさんの人が集っていた。そのほとんど皆が、壁にもたれて立っていた。みんなやせていた。そして燻製《くんせい》の鮭《さけ》のように褐色《かっしょく》がかっていた。
既に下り切っていた聖者が、治明博士の方へふり向いて、早く下りて来るようにとさし招いた。
今は、博士は恐ろしさも忘れ、下りていった。
聖者アクチニオ四十五世は、自分の前において、壁にもたれているミイラのような人間を指し、
「わが弟子《でし》たりしロザレの遺骸《いがい》である。これを汝《なんじ》にしばらく貸し与える」
「えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……」
と、治明博士は、問いかえした。
「今、ロザレの霊魂《れいこん》は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」
「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」
「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中《きょうちゅう》に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文《じゅもん》を結ぶであろう。しばらく、それに控《ひか》えていよ」
「ははッ」
治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘《しんぴ》な声に威圧《いあつ》せられて、はッと、それにひれ伏《ふ》した。
聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸《いがい》に向って呪文《じゅもん》を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節《かんせつ》が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。
(汝ら三名の平安のために――と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから――そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確《たしか》めることを怠《おこた》っていた。隆夫はどうしているだろうか。――いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊《とうと》き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼《ぶれい》となるのは分り切っている。慎《つつし》まねばならない。
呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊《ぼうれい》の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。
「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明《いちはたはるあき》。汝の供は、既に待っているぞ。早々《そうそう》、連れ立って、港へ行け」
聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。
そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。
「君は」
と、治明博士は、横に立っていた褐色《かっしょく》の皮膚を持った痩《や》せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。
「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」
と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。
帰国《きこく》
親子は、その後、バリ港を船で離れることができた。その船はノールウェイの汽船で、インドへ行くものだった。
コロンボで、船を下りなくてはならなかった。そしてそこで、更に東へ向う便船を探しあてることが必要だった。親子は、慣《な》れない土地で、新しい苦労を重ねた。
この二人を、ほんとの親子だと気のつく者はなかった。そうであろう、治明博士《はるあきはかせ》の方は誰が見でも中年の東洋人《とうようじん》であるのに対し、ロザレの肉体を借用している隆夫の方は、青い目玉がひどく落ちこみ、鼻は高くて山の背のように見え、その下にすぐ唇があって、やせひからびた近東人《きんとうじん》だ。頭巾《ずきん》の下からは、鳶色《とびいろ》の縮《ちぢ》れ毛がもじゃもじゃとはみ出している。パンツの下からはみ出ている脛《すね》の細いことといったら、今にもぽきんと折れそうだった。
しかし結局、隆夫のおかげで、治明博士はインドシナへ向う貨物船に便乗《びんじょう》することができた。それはロザレの隆夫を聖者に仕立て、すこしもものをいわせないことにし――しゃべれば隆夫は日本語しか話せなかった――治明博士はその忠実《ちゅうじつ》なる下僕《しもべ》として仕えているように見せかけ、そのキラマン号の下級船員の信用を得て、乗船が出来たのであった。もっとも密航するのだから、親子は船艙《せんそう》の隅《すみ》っこに窮屈《きゅうくつ》な恰好をしていなければならなかった。
キラマン号をハノイで下りた。
それからフランスの飛行機に乗って上海《シャンハイ》へ飛んだ。そのとき親子は、小ざっぱりとした背広に身を包《つつ》んでいた。
上海から或る島を経由《けいゆ》してひそかに九州の港についた。いよいよ日本へ帰りついたのである。バリ港を親子が離れてから八十二日目のことであった。
「よくまあ、無事に帰って来られたものだ」
「やってみれば、機会をつかむ運にも出会うわけですね」
親子は、休むひまもなく自動車を雇って、そこから山越えをして四十五キロ先にある大きな都市へ潜入《せんにゅう》した。汽車の便はあったのであるが、それは避《さ》けた。
三日ほど身体を休ませたのち、いよいよ親子は東京へ向った。
これからがたいへんであった。親子の間には、ちゃんと打合わせがついているものの、果してそのとおりうまく行くかどうか分らなかった。もしどこかで尻尾《しっぽ》をおさえられたが最後、えらいさわぎが起るにちがいなかった。ことに隆夫は、むずかしい大芝居を演《えん》じおおせなくてはならないのであった。それもやむを得ない。おそるべき妖力《ようりょく》を持つあの霊魂第十号をうち倒して、隆夫が損傷《そんしょう》なく無事に元の肉体をとり戻すためには、どうしてもやり遂げなくてはならない仕事だった。
親子は連れ立って、なつかしいわが家にはいった。それは日が暮れて間もなくのことであった。
隆夫の母は、おどろきとよろこびで、気絶《きぜつ》しそうになったくらいだ。しかしそれは、隆夫を自分のふところへとりもどした喜びではなくて、もはや亡《な》くなったものとあきらめていた夫の治明が、目の前に姿をあらわしたからであった。
「まあ、わたし、夢を見ているのではないかしら……」
「夢ではないよ。ほら、わしはこのとおりぴんぴんしている。苦労を重ねて、やっと戻ってきたよ」
「ほんとですね。あなたは、ほんとに生きていらっしゃる。ああ、なんというありがたいことでしょう。神さまのお護《まも》りです」
「隆夫は、どうしているね」
治明博士は、かねて考えておいた段取《だんどり》のとおり、ここで重大なる質問を発した。
「ああ、隆夫……隆夫でございますが……」
と、母親はまっ青になって、よろめいた。治明博士は、すばやく手を貸した。
「しっかりおしなさい。隆夫はどうかしたのですか」
「それが、あなた……」
「まさか隆夫は死にやすまいな」
治明博士の質問が、うしろの闇の中に立っている隆夫の胸にどきんとひびいた。もし死んでいたら、隆夫は再び自分の肉体を手にいれる機会を、永久に失うわけだ。母親は、どう応えるであろうか。
「死にはいたしませぬ」
母親の声は悲鳴に似ている。
しかしそれを聞いて隆夫は、ほっと胸をなで
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