明瞭《ふめいりょう》なことばが、その怪影《かいえい》の口から発せられた。
そのとき隆夫は、ふと我れにかえって、身ぶるいした。そしてふしぎそうに見廻したが遂に怪影を発見して
「あッ。あなたは……」
と、おどろきの声をのんだ。
意外な名乗《なの》り
隆夫《たかお》は、ぞおーッとした。
急にはげしい悪寒《おかん》に襲《おそ》われ、気持がへんになった。目の前に、あやしい人影をみとめながら、声をかけようとして声が出ない。脳貧血《のうひんけつ》の一歩手前にいるようでもある。
(しっかりしなくては、いけないぞ!)
隆夫は、自分の心を激励《げきれい》した。
「気をおちつけなさい。さわぐといけない。せっかくの相談ができなくなる」
低いが、落ちつきはらった声で、一語一語をはっきりいって、隆夫の方へ近づいて来た影のような人物。ことばははっきりしているが、顔や姿は、風呂屋の煙突《えんとつ》から出ている煙のようにうすい。彼の身体を透してうしろの壁にはってあるカレンダーや世界地図が見える。
(幽霊というのは、これかしらん)
もうろうたる意識の中で、隆夫はそんなことを考える。
「ほう。だいぶん落ちついてきたようだ。えらいぞ、隆夫君」
あやしい姿は、隆夫をほめた。
「君は何物だ。ぼくの実験室へ、無断《むだん》ではいって来たりして……」
このとき隆夫は、はじめて口がきけるようになった。
「僕のことかい。僕は大した者ではない。単に一箇の霊魂《れいこん》に過ぎん」
「れ、い、こ、ん?」
「れいこん、すなわち魂《たましい》だ」
「えッ、たましいの霊魂《れいこん》か。それは本当のことか」
隆夫はたいへんおどろいた。霊魂を見たのは、これが始めてであったから。
「僕は霊魂第十号と名乗っておく。いいかね。おぼえていてくれたまえ」
「霊魂の第十号か第十一号か知らないが、なぜ今夜、ぼくの実験室へやって来たのか」
隆夫は、まだ気分がすぐれなかった。猛烈に徹夜の試験勉強をした上でマラソン二十キロぐらいやったあとのような複雑な疲労を背負っていた。
「君が呼んだから来たのだ。今夜が始めてではない。これで二度目か三度目だ」
あやしい影は、意外なことをいった。
「冗談をいうのはよしたまえ。ぼくは一度だって君をここへ呼んだおぼえはない」
「まあ、いいよ、そのことは……。いずれあとで君にもはっきり分ることなんだから。それよりも早速《さっそく》君に相談があるんだ。君は僕の希望をかなえてくれることを望む」
霊魂第十号ははじめから抱いていた用件を、いよいよ切り出した。
「話によっては、ぼくも君に協力してあげないこともないが、しかしとにかく、君の礼儀を失した図々《ずうずう》しいやり方には好意がもてないよ」
「うん。それは僕がわるかった。大いに謝る。そして後で、いくらでも君につぐないをする、許してくれたまえ」
第十号は、急に態度をかえて、隆夫の前に謝罪《しゃざい》した。
「……で、どんな相談なの」
「それは……」霊魂第十号は、彼らしくもなく口ごもった。
「いいにくいことなのかね」
「いや、どうしても、今、いってしまわねばならない。隆夫君、僕は君に、しばらく霊魂だけの生活を経験してもらいたいんだ。承知してくれるだろうね」
「なに、ぼくが霊魂だけの生活をするって、どんなことをするのかね」
「つまり、君は今、肉体と霊魂との両方を持っている。それでだ、僕の希望をききいれて、君の霊魂が、君の肉体から抜けだしてもらえばいいんだ。それも永い間のことではない。三カ月か四カ月、うんと永くてせいぜい半年もそうしていてもらえばいいんだ。なんとやさしいことではないか」
あやしい影は、隆夫が目を白黒するのもかまわず、奇抜《きばつ》な相談をぶっつけた。
「だめだ。第一、ぼくの霊魂をぼくの肉体から抜けといっても、ぼくにはそんなむずかしいことはできない。それにぼくは現在ちゃんと生きているんだから、霊魂が肉体をはなれることは不可能だ」
「ところが、そうでなく、それが可能なんだ。そして又、君の霊魂に抜けてもらう作業については、すこしも君をわずらわさないでいいんだ。僕がすべて引き受ける。君はただそれを承知しさえすればいいんだ。めったにないふしぎな経験だから、後で君はきっと僕に感謝してくれることと思う。承知してくれるね」
隆夫はこの話に心を動かさないわけでもなかった。しかし、不安の方が何倍も大きかった。もっと相手が、自分に十分の安心をあたえるように説明してくれたら、一カ月やそこいらなら霊魂だけでとびまわってみるのもおもしろかろうと思った。
が、そのときだった。隆夫は急に胸苦《むなぐる》しさをおぼえた。はっとおどろくと、あやしい影が隆夫のくびをしめつけているではないか。
「なにをする。ぼくはまだ承諾《しょうだく》していないぞ。それはともかく、人殺《ひとごろ》しみたいに、ぼくのくびをしめるとはなにごとだ」
隆夫は苦しい息の下から、あえぎあえぎ、相手をののしった。
「はははは。はははは」
相手は、ほがらかに笑いつづける。隆夫は腹が立ってならなかった。しかし自分の意識が刻々うすれていくのに気がつき恐慌《きょこう》した。
「はははは。もうすこしの辛棒《しんぼう》だ」
「なにを。この野郎」
隆夫は、残っているかぎりの力を拳《こぶし》にあつめ、のしかかってくる相手の上に猛烈なる一撃を加えた――と思った。果して加え得たかどうか、彼には分らなかった。彼は昏倒《こんとう》した。
早朝の訪問者
その翌朝《よくあさ》のことであった。
三木健が、自分の家の玄関脇の勉強室で、朝勉強をやっていると、玄関に訪《と》う人の声があった。
三木はすぐ玄関へ出て扉をあけた。
「お早ようございます。名津子さんの御容態《ごようだい》[#ルビの「ごようだい」は底本では「ごようたい」]はいかがですか。お見舞にあがりました」
「はッはッはッ。よしてくれよ、そんな大時代な芝居がかりは……」
三木は腹を抱えて笑った。
というわけは、玄関の扉をあけてみると、そこに立っているのは余人にあらず、仲よし友達のひとりである一畑隆夫《いちはたたかお》であったから。その隆夫が、なんだって朝っぱらからやってきて、この鹿爪《しかつめ》らしい口のききかたをするのか、それは隆夫が三木をからかっているのだとしか考えられなかった。
「これはこれは健君。失敬をした。許してくれたまえ。姉さんに会いたいんだがね、よろしくたのむ」
隆夫は、三木が笑ったときに、どういうわけかあわてて逃げ腰になった。が、すぐ立ち直って、このように応対《おうたい》をした。
三木は、べつに隆夫のことを何とも思っていなかった。
「うん。それじゃ今母に知らせてくるからね。ちょっと待っていてくれ」
「いや、待てない。すぐ会いたい」
隆夫はひどく急いでいる。三木は、隆夫のおしの強いのに、すこし気をわるくした。だが大したことではないと、三木はすぐ自分の気持を直した。
「でも、病人だからね、様子を見た上でないと、かえって病気にさわると悪いから」
「じゃあ早くしてくれたまえ」
「よしよし」
三木は母親のところへとんでいって、今、隆夫君が来てこうこうだと話した。母親は、昨夜親切に隆夫たちが来て、器械を使って調べていってくれたことをたいへん感謝していて、それでは病人の様子を見ましょうとて、病室にはいった。
名津子は、血の気のない顔で、髪を乱したまま、すやすやと睡っていた。
そこで母親は三木のところへ戻って来て、今病人は疲れ切ってすやすや睡っているから、目がさめるまで、しばらくの間、隆夫さんに待っていてもらうようにといった。
三木は、そのことを隆夫のところへ来て話した。
すると隆夫は、大いに不満の顔つきになって、
「君たちは、ぼくを名津子さんに会わせまいとするんだな。けしからんことだ」
と、意外にきついことばをはいた。
これには三木もあきれてしまった。そんなことがあろうはずはない。隆夫はなにをかんちがいしているのであろうかと、三木はそれからいくどもくりかえして、昨夜《さくや》姉があばれたり泣いたり、叫んだりして、ほとんど一睡もしなかったことを語り、
「………だから、今疲れ切ってすやすや睡っているんだ。できるだけゆっくりねかしておきたい、でないと、姉は衰弱がひどくて、重態《じゅうたい》に陥《おちい》る危険があるのだ」
というと、隆夫は、なるほど、そうかそうかと合点して、ややおとなしくなった。しかし名津子の目がさめたら、すぐ自分のところへ知らせること、そしてすぐ自分を病室へつれていって名津子にあわせることを、くどくどとのべて、三木に約束させた。
三木は、このときになって、拭《ぬぐ》い切《き》れない疑問を持つに至った。
(どうも隆夫君の様子がへんだぞ。なぜ今日になって、姉に会いたがるのか、さっぱりわけが分らない。昨夜の実験の結果、急に姉に会う必要が生じたのかしら。それならそれといいそうなものだが……。なんだか隆夫君までおかしくなって来た)
隆夫は、三木の勉強部屋へ通された。
しかし彼は三木に向きあったまま、急に無口《むくち》になってしまった。なにかしきりに考えこんでいるようである。ふだんの明るい隆夫の調子は見られない。
そこで三木は、話しかけた。
「昨夜、電波収録装置《でんぱしゅうろくそうち》に取っていった、あれはどうしたね。結果は分ったかい」
「あれか。あれはよく取れていたよ」
「そうか。するとあれを使って、これからどうするのか」
「どうするって。さあ……」隆夫は困った顔になった。
「どうするって、とにかくあれは参考になるね」
「君は、もしあの中に、電波が収録されていたら大発見だ。そしてそうであれば姉の病気についても、新しい電波治療が行えることになろうといっていたが、それはどうだね」
隆夫はなぜか狼狽《ろうばい》の色を見せ、
「いや、そんなことはでたらめだ。病人を電波の力で癒《なお》すなんて、そんなことは出来るものではない」
「おかしいね。さっき君のいったことともくいちがっているし、君が日頃語っていたところともちがう。いったいどれが本当なんだ」
「断《だん》じて、僕はいう。君の姉さんの病気はきっと僕がなおして見せる。そのかわり、昨日僕がいったことは、一時忘れていてくれたまえ。今日から僕は、新しい方法によって、名津子さんの病気を完全になおしてみせる。もし不成功に終ったら、僕はこの首を切って、君に進呈《しんてい》するよ」
そういって隆夫は、自分のくびを叩いた。ひどく昂奮《こうふん》している様子だった。
そのとき母親がはいってきて、名津子が目がさめたようですから、と隆夫たちを迎えに来た。
昨日にかわり隆夫の様子がちがっているのは、どうしたことであろうか。
ここは何処《どこ》
ここまで書いてくると、賢明なる読者は、怪しい隆夫のふるまいのうしろに何が有るかを、もはや察せられたことであろう。
そのとおりである。
名津子を見舞に来た隆夫は、その肉体はたしかに隆夫にちがいないが、その肉体を支配している霊魂《れいこん》は、隆夫の霊魂ではないのだ。それは例の霊魂第十号なのである。
前夜隆夫は、とつぜん霊魂第十号の訪問をうけ、そして肉体を半年ほど借りたいから承知をしろと申入れられた。隆夫は、それをことわった。すると隆夫は、とつぜん首をしめられ、人事不省《じんじふせい》に陥ったのだ。
その直後、どういう手段によったものか分らないが、隆夫の肉体から隆夫の霊魂が追い出され、それにかわって霊魂第十号がはいりこんだのである。まさにこれはギャング的霊魂だといわなくてはならない。
とにかくこんなわけだから、翌日隆夫が三木家をたずねたとき、とんちんかんのことばかりいい、家人から不審《ふしん》をかけられたのだ。つまり第十号としては、隆夫の霊魂に入れ替《かわ》ったものの、すべて隆夫のとおりをまねることはできなかったし、また隆夫の記憶や思想をうまく取り入れること
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