を一つ借りて、それに少量の水をたらし、その水の中へ三本の燐寸の頭を漬けた。
 暫《しばら》くすると、茶碗の水は薄《うっ》すらと黄色に変った。そこで燐寸の頭を取出し、そこに残った淡黄色《たんこうしょく》の水をいと興深げに眺めていたが、こんどは何思ったものかその水を指先につけて、卓子《テーブル》の上に伸べてあった漫画の水兵の紙面へポタポタとたらし、それをすらすらと拡げていった。かくすること両三度、――彼は息づまる思いでその紙面を穴の明くほどみつめていた。
「おお――」
 と、そのとき彼は嬉しさのあまり、歓声をあげたのだった。紙面にはあまり顕著《けんちょ》ではないが、なにか緑色の文字らしきものがポーッと浮かんで来たのだった。ああ、これこそ隠しインキによる暗号文だった! すると問題の燐寸の頭には密かに隠しインキの現像薬が練りこんであったといえる。密偵団が死力をつくして燐寸の棒の奪還をはかったわけもわかる。死の制裁をもって責任者を処罰したわけもわかる。それにしてもうまいところへ隠しインキの現像薬を隠したものである。燐寸の頭なのだ。燐寸なんてどこにも転がっているもので、これを持っていても怪しむ者はないだろう。万一怪しまれそうになっても、何喰わぬ顔をして検閲官の前で、火を点けると薬も共に燃えて跡方もなくなってしまう。実に巧妙な隠し場所だといわなければならない。
 帆村はあの燐寸が、銀座の鋪道に斃《たお》れた婦人の身辺から発見されたとき、それが不可解なる唯一の材料だった点からして、油断をなさず「赤毛のゴリラ」が小猿を使って燐寸函の奪還をはかったよりも前にひそかにその函の中から数本の燐寸の棒をポケットに滑りこませて置いたのだった。もしあのとき、そこに気がつかなかったとしたら、今日密書の上に書かれた秘密文字を読みとることは絶対に困難だったろう。随《したが》ってR事件も遂にその真相を知られないでしまい、後へ行って大椿事《だいちんじ》を迎えるに及んで始めてあれがその椿事の前奏曲だったかと思いあたるようなことになったかも知れない。それでは遺憾もまた甚《はなは》だしいといわなければならない。――
 密書紙上の秘密文字は、漸《ようや》く緑色もかなり濃く浮きだして来た。帆村はそこに書かれてある文字を拾って読みだしたが、彼の顔は見る見る紅潮して来たのだった。隠しインキは、そもそも何を語っていたのであろうか?


   疑問の第二の海峡


 帆村探偵が愕《おどろ》いたのも無理がない。そこに浮かび出た緑色の文字は、実に次のような意味の文句を綴《つづ》ってあった。
「……ボゴビ、ラザレフ岬。四日完了。……総攻撃開始は十日の予定、それまでにR区各員は一切《いっさい》の準備を終了し置くを要す」
 ボゴビ、ラザレフ岬とは何処《どこ》を指していうのか。また何を完了するというのか?
 総攻撃開始とは、何処を攻めるというのであるか?
 R区とは何処を云っているのか?
 各員は何を準備するのであるか?
 何のことだか、ハッキリは分らないけれど、帝都に巣喰う密偵団に準備をしろという点から考えると、これは何かわが日本帝国に関係のあることはいうまでもない。もっと深く知るためには、ボゴビ、ラザレフ岬という地名を知らねばならない。
 探偵帆村荘六は、憩《いこ》う遑《いとま》もなく、それからまた地名辞典の頁《ページ》を忙しく繰った。すると、果然あった、あった。ラザレフ岬にボゴビ町! ボゴビ町というのは、北樺太《きたからふと》の西岸にある小さな町の名だった。ラザレフ岬というのは、間宮《まみや》海峡をへだてて其の対岸にあたる沿海県の岬の名で、その間の距離は間宮海峡の中では一番狭いところだ。そしてニコライエフスクの南方約百キロの地点にあたる! この狭い海峡を距てて向いあった両地点に何が完了したというのか?
「はアて?」と帆村は頤《あご》を指先で強く圧《お》した。これは彼の癖で、なにか六《むず》ヶ敷《し》いことにぶつかったとき、それを解くためには是非これをやらないと智慧袋の口が開かない。
「デジネフ岬とプリンス・オヴ・ウェールス岬も、ごく狭い海峡を距てて向いあった両地点である。ところが、いま問題のボゴビとラザレフ岬も同じような地点である。これはどうしたというのか。地勢が似かよっているのは偶然なのだろうか、それともそこに深い意味があるのだろうか?」
 もちろん、これは偶然の暗号ではない。共通した地勢には、共通した問題が横たわっていると考えなければならない。すると、共通した問題とは何であるか、それこそはこの暗号の奥に秘められている大秘密でもあり、また敵の密偵長「右足のない梟《ふくろう》」が身命《しんめい》を賭《と》して達成しようとしている大使命でなければならない!
 さるにても、「ボゴビ、ラザレフ岬、
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