流線間諜
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)其《そ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青年探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これから君にちと[#「ちと」に傍点]
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   R事件


 いわゆるR事件と称せられて其《そ》の奇々怪々を極めた事については、空前にして絶後だろうと、後になって折紙がつけられたこの怪事件も、その大きな計画に似あわず、随分《ずいぶん》永い間、我国の誰人にも知られずにいたというのは、不思議といえば不思議なことだった。
 だが、後に詳《くわ》しく述べるように、このR事件というのは実をいえば当時、国内問題のために非常な重大危機に立っていた某国政府当局が、その国家的自爆から免《のが》れる最後の手段として、相手もあろうにわが日本帝国に対して、試みた非常工作なのであった。もし其《そ》の怪計画が不幸にして曝露《ばくろ》するようなことがあれば其《そ》の計画の破天荒《はてんこう》な重大性からみて、日本帝国は直《ただ》ちに立って宣戦布告をするだろうし、同時に列強としても某国を人道上の大敵として即時に共同戦線を張らなければならないことになるのは必定《ひつじょう》であって結局某国としてはこの怪計画に関し極度に秘密性を保つ必要があったのである。
 一体その怪計画というのはどんなことだったか? それはいま読者諸君の何人といえども恐らく夢想だにされないであろうと思うような実に戦慄《せんりつ》すべき陰謀だった。いずれ順序を追って述べてゆくうちにその怪計画の全貌が分る日が来るだろうが、そのときにはきっと筆者《わたくし》の今いった言葉の偽《いつわ》りではなかったことを知っていただけるであろう。
 某国政府当局は、国運を賭《か》けたこの怪計画のために、特によりすぐった特務機関隊を編成して、丁度《ちょうど》一年前からわが国に潜入させたのだった。その計画の重大性からいっても、また派遣特務員の信頼するに足る技倆《ぎりょう》からいっても、この事件は目的を達するまで遂に全く秘密裡《ひみつり》におかれるのではないかと思われたのであるけれども、世の中のことというものはなかなかうまくゆかないものであって、運命の神のいたずらとでも云おうか偶然が作った極《ご》く瑣細《ささい》な出来ごとから、その年の十月、この怪計画に関係のある一部分が始めて我が官憲に知られるに至った。これがR事件の最初の一頁《ページ》なのであるが、それは白昼華やかな銀座街の鋪道《ほどう》の上で起った妙齢《みょうれい》の婦人の怪死事件から始まる。そして若《も》しその怪死事件の現場にかの有名な青年探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》が居合わさなかったとしたら、これは舞台が華やかな銀座で演じられたというだけのことで結局|極《ご》く普通の死亡事件として見遁《みのが》されてしまったことであろう。一体帆村探偵は何を証拠として、その犯罪の裏にひそんでいた怪奇性を看破したのであろうか。実にそれはたった一個のマッチの箱からだったといえば、誰しも驚くにちがいない。筆者はこの辺で長い前置きを停《や》めて、まず白昼の銀座街を振り出しのR事件第一景について筆をすすめてゆこうと思う。
 それは爽《さわ》やかな秋晴れの日のことだった。詳しくいえば十月一日の午後三時ごろのことだったが、青年探偵帆村荘六は銀座の鋪道の上を、靴音も軽く歩いていた。丁度《ちょうど》彼は永い間かかった或る仕事を片づけた直後で、半《なか》ば興奮し、そして半ば退屈を覚えて、いつも愛用の細身の洋杖《ステッキ》をふりふり散歩をしていたのだった。
 鋪道の上で、彼にすれ交《か》う人たちは、いずれも若く、そして美しかった。男よりも、どっちかというと若い女性が多かった。溌溂《はつらつ》たる令嬢、麗《やさ》しい若奥様、四、五人づれで喋《しゃべ》ってゆく女学生、どこかで逢ったことのある女給、急ぎ足のダンサーなどと、どっちを向いても薔薇《ばら》の花園に踏みこんでいるような気がした。しかしよもやその日花園の中で彼女等のうちの一人が死んでゆくところを目撃しようとは考えていなかった。
 彼は銀座の四つ角を青信号の間に渡って、京橋の方に向って歩いているところだった。もう半丁《はんちょう》もゆけば喫茶ギボンがあるので、そこによって温い紅茶をのもうと思った。そして眼をあげてチラリとその方角を眺めた。丁度そのときだった。彼は一人の洋装の麗人が喫茶ギボンの飾窓《ショウインドウ》の前で立ち停《どま》ったままスローモーションの操《あやつ》り人形《にんぎょう》のように上体をフラリフラリと動かしているのを認めた。
「オヤ、どうしたんだろう?」
 きっと練兵場の近くの女のひと
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