きゃーっという悲鳴が、彼の耳をうった。
「怪物だァーおい、逃げろ」
 という声も聞えた。
 だが一郎は、あまりに眩《まぶ》しくて、しばらくは何も見えなかった。なんだか、ひろびろとした世界へ出ているらしいことはわかったけれど……。
「こりゃ怪物、そこうごくな。そちに、あいたずねるが、貴公は人間の性《しょう》をもったる者か、それとも、河童《かっぱ》のたぐいであるか。正直に、返答をせよ」
 へんな言葉づかいの声が、岡部一郎の耳にきこえてきた。そのとき彼は、もう観念してしまった。ようやく事情が、はっきりしたのであった。地中を掘ってゆくうち、そういうことのないように気をつけていたつもりであったけれど、とうとうお隣りの鬼河原邸《おにがわらてい》の泉水《せんすい》をこわしてしまったのであった。すなわち今彼に向って「やあやあ汝《なんじ》は人間の性《しょう》か河童のたぐいか」とどなっているのは、鬼河原家の三太夫《さんだゆう》氏の声にちがいない。
「えらいことを、やってのけたぞ。三太夫さんがびっくりしているうちに早いところ逃げないとたいへんだ」
 一郎は、ふたたび、
「うわーッ」
 と、声をあげると、穴からとびだした。
 なにごとが起ったかと、泉水の方をこわごわみていたお邸《やしき》の連中は、泉水の中から、いきなり、泥まみれの小僧《こぞう》が、シャベルとつるはしとをもってとびだしたものだから、きもをつぶしてしまった。奥へ逃げこむ者、その場にへたばる者、わめきちらす者のある中を、一郎は、自分の家の庭に生えている大きい欅《けやき》の樹を見当にして、まっしぐらに走りだした。そして、お邸の垣根をこえて、自分の家の庭へ、とびこんだのであった。
 人間地下戦車事件の終幕だった。
 人間地下戦車が、お隣りの鬼河原邸の泉水《せんすい》をこわしてしまったので、岡部一郎は、たいへん叱られた。
 そのあげく、とうとうシャベルもつるはしも、一郎から取り上げられてしまったので、彼は、当分おとなしくしなければならなかった。しかし彼は決して、地下戦車をこしらえ地下戦車長になることを断念したわけではなかった。国防のために突進しようと決心した彼であった。誰に叱られようと、退却するようないくじなしの岡部一郎ではなかった。


   信越線


 さて、それから月日がながれた。そして、冬となった。
 会社の主任の小田さんが、急に新潟県へ出張することになった。
 それを聞いた一郎は、ぜひ小田さんについて行《ゆ》きたいとねがった。彼は、東京育ちであったから、新潟県というところを、見たくなったのである。
 それを聞いて、小田さんは、
「おい岡部、今ごろ新潟県へいっても、すこしも、おもしろいことはないよ。今は、雪ばかり降っているのだ。高田市などは、もう四、五メートルも雪が積っているという話だから、たいへんだよ」
 小田さんは、一郎をつれていって、風邪《かぜ》を引かせるといけないと思い、そういった。
「ぜひ僕は、いきたいんです。小田さん、僕は、雪がそんなに降ったところを見たことがないから、ぜひみせてください。それから僕は、もう一つ、ぜひみたいものがあるんです」
「もう一つみたいものって、なにかね」
「それはねえ、ラッセル車です」
「ラッセル車?」
「つまり、鉄道線路に積っている雪をのける機関車のことです。いつだか、雑誌でみたのですよ。雪の中を、そのラッセル車が、まるい大きな盤のようなものをまわして、雪を高くはねとばしていくのです。すばらしい光景が、写真になって出ていた」
「ああ、そうか。それなら、ロータリー式の除雪車《じょせつしゃ》のことだな。そんなものをみて、どうするのかね」
 と、主任の小田さんは、また目をくしゃくしゃさせ、そしてしきりに鼻の下をこすった。
「それは、いわなくても、わかっているじゃありませんか。僕、このロータリーとかいうのを見て、地下戦車をこしらえる参考にしたいのです。だから、ぜひつれていってください」
「ははあ、そうか。やっぱり、そうだったのか。よし、そういうわけなら、所長に頼んで、なんとかしてやろう」
 小田さんは、わかりの早い人である。そこで所長にうまく話こんでくれた。その結果、岡部一郎は、破格《はかく》の出張を命ぜられることとなった。
 生れてはじめての遠い旅行である。小田さんと待ちあわせて、上野駅を夜行でたった。汽車は、たいへん混んでいた。
「岡部、安心して、ねなさい。朝になって、いいときに、私が起してあげるから」
 小田さんは、一郎をねるようにすすめた。一郎は一時に気づかれが出て、まもなく、ぐっすりと寝込んだ。
 朝は、早く目がさめた。一郎を起してくれるはずの小田さんは、まだぐうぐうねむっていた。一郎は、起きるとすぐ、手帳を出して白い頁《ページ》をひろげた。
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