ふーん、それはまあ、そうだろうな」とうなずき、
「だが、岡部。ほんのぽっちりしか掘れなくても、もしもこれを毎日つづけて一年三百六十五日つづけたとしたら、どうだろう。計算してみたまえ」
「計算? 計算するのですか」
「そうだ。技術者というものは、すぐ計算をやってみなければいけない。多分このくらいだろうと、かん[#「かん」に傍点]だけで見当をつけるのは、よくないことだよ。技術者は、必ず数値のうえに立たなくちゃ」
係長さんが、むつかしいことをいいだしたので、一郎少年は、わけがわからなくなった。
「数値のうえに立つとかいうのは、なんのことですか。石段の上でも、のぼるのですか」
「冗談じゃないよ。数値の上に立つというのが、わからないかね。岡部は森蘭丸《もりらんまる》という人を知っているかね」
「森蘭丸? 森蘭丸というのは、織田信長の家来《けらい》でしょう。そして、明智光秀が本能寺に夜討《ようち》をかけたとき、槍をもって奮戦し、そして、信長と一緒に討死《うちじに》した小姓《こしょう》かなんかのことでしょう」
「そうだ、よく知っているね。どこで、そんなことおぼえたのかね。ははあ分った。浪花節《なにわぶし》をきいて、おぼえたね」
「ちがいますよ。子供の絵本でみたんですよ」
「子供の絵本か。僕は浪花節で、おぼえたのだよ。あははは。――まあ、そんなことは、どうでもよい。その森蘭丸が、なかなか数値の上に立つ行《おこな》いがあったことを知っているか」
「知りませんねえ」
「じゃあ、話をしてやろう。信長が、或る日、小姓を集めていうには、お前たちの中で、もしも余の佩《は》いているこの脇差《わきざし》のつかに、幾本の紐《ひも》が巻いてあるか、その本数をあてたものには、褒美《ほうび》として、この脇差をつかわそう。さあ、誰でも早く申してみい。『はい』と答えて力丸《りきまる》ゥ……」
「係長さん、へんなこえを出さないでくださいよ。今、所長さんが、戸口から、じろっとこっちを睨《にら》んで通りましたよ」
「なあにかまやしないよ。別に悪いことをやっているんじゃない。これで三味線《しゃみせん》がはいると、わしゃ、なかなか浪花節をうまく語るんだがなあ」
「係長さん、どうぞ、その先をいってください」
「うむ、よしきた。『二十五本でございます』と、力丸《りきまる》はいった。『あはは、ちがうちがう、お前は落第だ。さあ、他の者!』こんどは坊丸《ぼうまる》が、『お殿さま、四十二本でござります』『ああそんな不吉の数じゃない。駄目駄目、さあ、お次』と、だんだん小姓たちに答えさせてみるが、一人として、これを当てるものがない。すると、残ったのが、森蘭丸、只一人じゃ。『蘭丸、お前はさっきから、黙っているが、あとはお前一人じゃ、早くこの脇差のつかをまいてある紐の本数をこたえろ』と信長の御催促《ごさいそく》があった。そのとき森蘭丸は、へへッと頭を下げ、『わたくしは、その答を仕《つかまつ》りません』という。信長、声をあららげ、『答えぬとは、無礼者。なぜに答えぬ。そちはこの脇差が欲しゅうないか』蘭丸つづいて平身低頭《へいしんていとう》いたし『おそれながら、申上げます。御脇差は、欲しゅうござれど、私はお答えいたしませぬ』『なぜじゃ、わけをいえ』『はい私は、その紐の本数を、存じ居《お》ります。実を申せば、お殿さま、厠《かわや》に入《い》らせられましたとき、私はお出を待つ間に、紐の本数を数え置きました。されば、私は存じ居《い》るがゆえに、お答えすることをば憚《はばか》ります』蘭丸は、仔細《しさい》を物語って、平伏《へいふく》した。――どうだ、聞いているかね」
旅順戦《りょじゅんせん》の坑道《こうどう》
「ええ、聞いております。なかなか面白い浪花節的《なにわぶしてき》お話ですね」
「これからがいいところだ。よく聞いていなさい。――そこで信長公は、蘭丸の正直を非常にほめて、脇差を下し置かれた。実は信長公は、先ごろ厠《かわや》に入っていて、蘭丸が脇差の紐の本数を数えているのを隙間《すきま》から御覧になっていたのだ、そこで、わざとこういう質問を発して蘭丸の正直さをたしかめてごらんになったという話さ。どうだ、感心したか」
「感心しましたが、数値の上に立つというのは……」
「そこだよ。信長公は蘭丸が正直なのを褒《ほ》めて、脇差を下し置かれたと、浪花節ではいっているが、それは嘘だと思う」
「嘘ですか。では……」
「僕は、嘘じゃないかと[#「嘘じゃないかと」は底本では「嘘じゃないと」]思う。信長公は、こういって褒められた。『蘭丸、お前は数値の観念があって、感心な奴じゃ。何でも、物の数は、数えておぼえておけば、必ず役に立つ。大きくなって、軍勢を戦場に出してかけひきをするについても、まず必要なのは、作戦は常に
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