さんは近所だからよく知ってなさるんでしょう」
 豊乃を一時去らせると、検事は云った。
「さっきの矛盾した事実はこれで説明ができるようだね。みどりは、金《かね》と親とに縛《しば》られて厭《いや》な男と結婚しなけりゃならないのだ」
「それでは、みどりが松山に毒を盛ったとすると、どんな方法によったんでしょうか」と河口警部が反問した。
「松山が気をゆるしているとすれば、彼の湯呑《ゆのみ》へみどりが毒薬を入れることは訳のないことだ。君、松山のつかった湯呑について分析を頼んでほしいね」
「ちょっと私から申上げますが」と先刻《さっき》から黙々《もくもく》として卓子《テーブル》の上に表向きにした牌《こま》を種類どおりに綺麗に並べあげて、その表をつくづくと眺めていた帆村探偵が言った。
「こう順序よく牌を並べてみて判ったわけですが、ごらんなさい此処《ここ》に九索《ちゅうそう》という牌が四枚並んでいます。ところでその内の一枚は、他の三枚にくらべて彫刻に塗りこんである絵具《えのぐ》が莫迦に色褪《いろあ》せています。一体、牌《こま》に水がかかると少し色がはげますが、よくこの牌を見ると、はげたばかりでなく元は赤と青とであったものが、赤は黒くなり、青は黄味《きみ》を帯びています。これは水ではげたのではなく、何か異物、たとえば他の薬品を塗りつけたことが想像されます。
「ほほう、これは面白い発見だ。すると犯人は麻雀牌《こま》の彫《ほ》りの中に毒薬を塗りこんだというわけですな」と雁金検事は感嘆した。
「しかしどうしてそれが松山の身体へ入って行ったでしょう」
「屍体の拇指《ぼし》の腹に小さい傷が一つありましたようですが」と警部が口を出した「深い彫りの中にある毒薬が傷をとおして簡単に身体へ入り得るだろうかね」と帆村に向って訊《き》いた。
「犯人の準備は中々考えぶかいものです」と帆村探偵は何事かを思いうかべるかのように下唇を噛んだが「この松山虎夫は牌を持ってくるときに、拇指の腹でこの彫りのところを思いきりギュッとこする癖があるのです。それで今夜も毒薬のついている牌を、ひどく力を入れてこすった為めに、あの傷口から毒薬が入ったものと思われます」
「こいつは、よく判る」と検事が合槌《あいづち》をうった。
「私の経験から考えますと、この毒薬は阿弗利加産《アフリカさん》のストロファンツス草から採取したものだと思います。阿弗利加の原地人は、こいつを槍や矢の先に塗って敵と闘いますが、これが傷口から入ると心臓|麻痺《まひ》をおこします。用量が極《きわ》めてすくなくてよいので効目《ききめ》があるのです」
「そんな毒薬をよく、川丘みどりがたやすく手に入れたものですね」と警部が疑い深そうに言った。
「僕はみどりが犯人だと、まだ断定していない」と検事が弁明した。
「それからもっと面白いことがあります」と帆村探偵は構わず話をつづけた。「牌を拡大レンズで観察してみましたところ、重大な発見をしました。彫りのある角《かど》のところに、細くて白い繊條《せんじょう》が二三條附着しています。これは犯人が毒薬を、あとで拭きとった時に用いた材料が何であるかを語っていると思います。ピンセットで採取したものについて簡単な試験をしてみましたところ、それは脱脂綿《だっしめん》であることが判りました」
 帆村探偵の説はあまりに明瞭なので、検事と警部は感歎する言葉もなく黙ってしまった。
「しかし」と帆村探偵はここで急にガッカリしたという様子で語調を改めた。「私のこの説は、犯人がどんな方法で松山を殺したか、それを説明したのに過ぎません。松山が誰に殺されたか、それはすこしも判っていない。こんなに多くの証拠をのこして置きながら、犯人自身の識別に関するものは、今のところ一つも見当らないのです。この犯人は、犯罪にかけて非常な天才を持っているのに違いありません」
 それにしても帆村が短時間のうちに解決してくれた犯行の方法は、今後の取調べに非常に便宜《べんぎ》を与えてくれるものに違いなかった。その点で検事たちは帆村を慰《なぐさ》めたのであった。そこへ、三人を探しに行った刑事たちがドヤドヤと帰って来た。


     4


 その後の取調べは、翌日のおひる過ぎから同じ場所で始められた。
「松山の死体解剖の結果、自殺ではなく他殺であることが判りました。毒物は帆村さんの説のとおり、拇指《ぼし》から入ったもので、死因は心臓|麻痺《まひ》、毒物はストロファンツスらしいとのことで、すべて帆村さんの説と一致していました」
 と河口警部が、最初に報告した。
「それでは私も御報告をして置きましょう」と帆村探偵が、いつに似ず元気のない口調で云った。「麻雀|卓子《テーブル》の附近についていろいろと集めた資料を検査してみましたが、すこしも犯人の見当はつきませんでした。これは甚《はなは》だ遺憾《いかん》に思っとります。唯《ただ》一つお目にかけて置きたいのは、この鋲《びょう》の頭です(と、前夜|卓子《テーブル》の脚のところから拾いあげた針のとれている鋲の頭を示しながら)これは犯行に関係のあるものなんです。ごらんなさい、この鋲《びょう》の頭は非常に薄く擦《す》りへらされています。これは故意にそうなされたもので、この鋲の頭に小さい穴があいていますが、この鋲を拇指《ぼし》の腹でグッと麻雀台に刺しこむと鋲の頭の肉が薄いために針が逆につきぬけて拇指《ぼし》をプスッと刺し貫く筈です。松山は犯人の注文どおりに拇指《ぼし》に傷をこしらえてしまったのです」
「それはお手柄だ」と検事が言った。「なにか犯人の指紋でも残っていませんか」
「松山の指紋はハッキリ附いていますが、其《こ》の外《ほか》には誰の指紋も見当りません」
「すると犯人は松山にその鋲をつかわせる機会を覘《ねら》っていたことになるね」と警部が云った。
「その鋲を使わせるために、犯人は湯呑み茶碗をひっくりかえさせて、白布《しろぬの》をとりかえました」
「ウン、それは」と検事は控帳《ひかえちょう》の頁をくりかえしてみながら「湯呑をひっくりかえしたのは星尾信一郎だな。星尾に嫌疑《けんぎ》がかかりますね」
「だが雁金検事」と帆村は言った。「茶碗をひっくりかえされるような場所に置いておくこともできますからね」
「それでは園部の湯呑み茶碗だったというから、園部が犯人というわけだね」と河口警部はおかしそうに笑った。「そりゃ余りに考えすぎていませんかな。それよりも犯人は殺人の機会をとらえるために、常に毒物や、仕掛のしてある鋲や、それから帆村さんの説によって使ったことが判った脱脂綿などを常に携帯していたわけだから、昨夜《さくや》捕《とら》えてきた三人の所持品を検査すればいいと思う。いや、実は今朝《けさ》、部下のものから報告があったのですが、問題の脱脂綿《だっしめん》がみつかったのです。それを持っていた人間まで解っています」
 検事と帆村探偵は呆気《あっけ》にとられた。
「それは星尾です。実は星尾を押《おさ》えに行った部下の刑事が、こちらへ護送してくる途中、星尾がソッと懐《ふところ》から出して道端《みちばた》に捨てたのをいち早く拾いあげたのです。それには茶褐色《ちゃかっしょく》の汚点《おてん》がついていました。鑑識係《かんしきかかり》にしらべさせたところ、例の毒物がついていたのです」
「星尾に当ってみたかね」と検事が訊いた。
「早速当ってみました。が、白状しません」
「そりゃそうだろう。星尾には松山を殺す動機がすこし薄弱《はくじゃく》すぎる」
「そうでもありませんよ、雁金さん。星尾は理科の先生です。科学的なことはお得意の筈です。それに星尾の父親というのが神戸に居ますが、これは香料問屋《こうりょうどんや》をやって、熱帯地方からいろいろな香水の原料を買いあつめては捌《さば》いているのです。阿弗利加《アフリカ》の薬種《やくしゅ》を仕入れる便利が充分あります。それから星尾は、すこし変態性欲者だという評判です。それから湯呑み茶碗をひっくりかえしたのも、兎《と》に角《かく》、彼でした。彼の犯行現場が帆村さんの眼に入らなかったのは先生|背後《うしろ》を向けていたからです」
 そう云えば帆村は、星尾の牌《パイ》がよく見えるところから、そればかりに気をとめて、其の行動には余り注意をしていなかった。警部の指摘した証拠は、たしかに星尾に濃厚な嫌疑をかけてよいものだった。
 そこで一同の前に星尾が引っぱり出されることになった。脱脂綿と毒物の出所《でどころ》について自白を迫ったのであったが、彼は中々思うように喋《しゃべ》らなかった。しかし警部が、物馴れた調子で彼に不利益な急所をジワジワと突いてゆくと、流石《さすが》にたまりかねたものと見えて、彼はとうとう口を開いた。それは検事たちの思いも設《もう》けぬ種類のことがらだった。
「実は、あの綿は、麻雀を打っているときに、みどりさんの袂《たもと》から盗みだしたのです。毒物については存じません」
 赤くなったり青くなったりして星尾の物語るところは、満更《まんざら》嘘《うそ》であるとは思えなかった。彼はその変態性欲について大いに慚愧《ざんき》にたえぬと述べて、汗をふいた。
 それで彼の嫌疑《けんぎ》は晴れたわけではなかったが、兎《と》に角《かく》、みどりに綿と毒物の事を訊問《じんもん》してみることにした。彼女は、すこし取乱している態《さま》で、昨夜彼女を連れて来た刑事に助けられつつその席についた。取調べによって彼女はこんな風に弁明した。
「わたしは昨日から……」とすこし言い淀《よど》んでいたが、「実は月経《メンス》になっていたのです。だから脱脂綿をもっているのに不思議はない筈《はず》ではありませんか。毒物のことは存じません。松山が死ねばよいと思うかとおっしゃるのですか、それは私にとって悪くないことですわ。どんないい男にだって、お金で買われてゆくのでは厭《いや》です。併《しか》し、わたしは松山さんを殺した覚《おぼ》えなんかございません」
 調べついでに園部を呼んできいてみた。徹頭徹尾《てっとうてつび》、彼は知らないと答えた。みどりが脱脂綿を持っていたと白状したがお前は知っているかと訊いたところ、彼は「それは嘘だ」と言って強く否定した。訊いてみると彼は月経というものについての知識にさえ乏しい少年であることが判って警部はおかしそうに笑い崩《くず》れた。星尾が脱脂綿を持っていたのを知らぬかと訊《き》いたが、これも「知らぬ」と言った。
 すると附添っていた刑事が口を出した。
「この人は、星尾が綿を捨てたところを見て注意して呉れたんです。実は、私はこの人を捕えに行ったのですが、とうとう見当らず、空手《からて》で帰って来ました。ところが星尾をさがしに行った本田刑事は、星尾とこの人とが一緒に暗い田舎道を歩いていたところを発見して連れてかえったのですが、その途中、星尾が捨てたところを注意してくれたんだと云ってました」
 その刑事が呼びだされて、それに違いないと答え、尚《なお》、あとで報告するつもりであったが園部の懐中から、こんなものを発見したといって、長さが五六寸もあるニッケルの文鎮《ぶんちん》を提出した。園部の弁明によると、それはB駅を下りたところで店をしまいかけた夜店《よみせ》の商人から買ったのだという。
「何故、君はB駅で降りないで、一つ手前のA駅で降りたのですか」と帆村がこの時、横合いからきいてみた。
「あの晩はいやな気持になったので、星尾君とすこし歩いてみるつもりだったのです」と歯切れのよい言葉で園部は答えた。
 次に念のため麻雀ガールの豊乃が訊問《じんもん》をうけることになった。いろいろと訊いているうちに豊乃は、とうとう泣き出してしまったが、最後にのべたことは、係り官の頭脳を滅茶苦茶にかき乱してしまった。
「わたしは、星尾さんがみどりさんの袂から綿を盗んだのをみました。わたしは、口惜しかったので、星尾さんの背後《うしろ》にまわって、その綿を盗んでやりました。その綿はクルクルに丸めて屑籠に捨ててしまいましたけれど、
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