麻雀殺人事件
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目下《もっか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)麻雀|倶楽部《クラブ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)勝負ごと[#「ごと」に傍点]に
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それは、目下《もっか》売出《うりだ》しの青年探偵、帆村荘六《ほむらそうろく》にとって、諦《あきら》めようとしても、どうにも諦められない彼一生の大醜態《だいしゅうたい》だった。
帆村探偵ともあろうものが、ヒョイと立って手を伸ばせば届くような間近《まじ》かに、何時間も坐っていた殺人犯人をノメノメと逮捕し損《そこな》ったのだった。いや、それどころではない、帆村探偵は、直ぐ鼻の先で演じられていた殺人事件に、始めから終《しま》いまで一向気がつかなかったのだというのだから口惜《くや》しがるのも全く無理ではなかった。
「勝負ごと[#「ごと」に傍点]に凝《こ》るのは、これだから良くないて……」
彼はいまだにそれを繰返しては、チェッと舌を打っているところを見ると、余程《よほど》忘れられないものらしい。彼が殺人事件とは気づかず、ぼんやり眺めていたという其の場の次第は、およそ次にのべるようなものだった。
* * *
それは蒸《む》し暑い真夏の夜のことだった。
大東京のホルモンを皆よせあつめて来たかのような精力的《エネルギッシュ》な新開地《しんかいち》、わが新宿街《しんじゅくがい》は、さながら油鍋《あぶらなべ》のなかで煮《に》られているような暑さだった。その暑さのなかを、新宿の向うに続いたA町B町C町などの郊外住宅地に住んでいる若い人達が、押しあったりぶつかり合ったりしながら、ペーブメントの上を歩いていた。郊外住宅も案外涼しくないものと見える。
帆村探偵は、ペーブメントの道を横に切れて、大きいビルディングとビルディングの間の狭い路を入ると、突当りに「麻雀《マージャン》」と書いた美しい電気看板のあがっている家の扉《ドア》を押して入った。彼は暑さにもめげず大変いい機嫌だった。というのもその前夜で、永らくひっかかっていた某大事件《ぼうだいじけん》を片付けてしまったその肩の軽さと、久しぶりの非番を味《あじわ》う喜びとで、子供のように、はしゃいでいた。三年こっち病《や》みつきの麻雀を、今夜は思う存分闘わしてみようと思った。
「あ、こりゃ大変だ」
と帆村は、麻雀|倶楽部《クラブ》の競技室のカーテンを開くと、同時に叫んだ。この暑いのに、文字通り立錐《りっすい》の余地のない満員だった。
「いらっしゃいまし。今日は土曜の晩なもんで、こう混《こ》んでんのよ、センセーッ」
麻雀ガールの豊《とよ》ちゃんが、鼻の頭に噴きだした玉のような汗を、クシャクシャになった手帛《ハンカチ》で拭き拭き、そう云った。
「先生――は、よして貰いたいね、豊ちゃん。あの星尾信一郎《ほしおしんいちろう》氏は本当の先生なのに、あいつ[#「あいつ」に傍点]のことは、シンチャン、シンチャーンってね……」
「いけないワ先生」と豊ちゃんは、真紅に耳朶《みみたぼ》を染めながらそれを抑えた。「いま星尾さん、いらしっているのよ。そんなこと聞えたら、あたし、困っちゃうワ」
「困るこたァ無いじゃないか、豊っぺさん」と帆村はますます上機嫌に饒舌《しゃべ》った。「こんなことは、聞えた方が目的は早く叶《かな》うよ。それとも僕、本当にシンチャンに言ってやろうか。豊ちゃんが実は昔風のなんとか煩《わずら》いをしていますが、先生の御意見はいかがでしょうッてね。だけど僕のことをセンセといいませんて誓ってくれなきゃ、僕やってやらんぜ」
「そんなんないわ」
「豊ちゃん、記録ーゥ」と叫ぶものがある。
「ハーイ、唯今《ただいま》」とそれには答え、それから帆村の方に向き、低い声で言った。
「あのシンチャンのお仲間、今日もお昼からきて特別室でやってなさるのよ。帆村さんも、あっちへいらっしゃらない」
特別室というのは広間《ホール》の隣りにある長細い別室で、ここには割合にゆっくり麻雀|卓子《テーブル》が四台並べてあり、椅子にしても牌《こま》にしてもかなり上等のものを選んであり、卓子布子《テーブルクロース》に、白絹《しろぎぬ》をつかっているという贅沢《ぜいたく》さだった。帆村が入ってみると、どの台にも客がいた。一番|窓際《まどぎわ》の卓子《テーブル》に、豊ちゃんの云った「例のお仲間」の四人が、一つの卓子《テーブル》を囲んで、競技に夢中になっていた。帆村は側《かたわ》らの長椅子に身を凭《もた》せて、しばらく席が明くのを待っていなければならなかった。彼は見るともなしに、「例のお仲間」の方に顔を向けていた。
「こんなに蒸《む》し蒸《む》しするのも太陽の黒点《こくてん》のせいだよ」と一番、入口のカーテンに近いところに背を向けて腰を下ろしている理科大学の星尾助教授が言って、麻雀の牌《こま》をガチャガチャと、かきまわした。
「太陽の黒点なんか蹴っとばせ、てえんだ。――やあ、いいものを引っぱってきた」と機嫌のよいのは、仲間の一人で、星尾助教授の対門《むかい》にいる慶応ボーイで水泳選手をやっている松山虎夫だった。
「今日は、ちっともいいのが来ないわ」と松山の左手に坐っていた川丘みどりが、真紅に濡れているような唇をギュッと曲げて慨《なげ》いた。そして象牙《ぞうげ》のように真白で艶々《つやつや》しい二の腕をのばして牌《こま》を一つ捨てた。
「それで和《あ》がりだ」と叫んで、自分の手を開けてみせたのは、「豆シャン」と綽名《あだな》のある美少年|園部壽一《そのべじゅいち》だった。少年といっても彼は大学の建築科二年だから、仲間の男の中では一番若かったが、川丘みどりは十九だったからこれよりは兄さんだった。
「園部さん、窓をあけてよ、暑いわ」みどりが「お狐《きつね》さん」と綽名《あだな》されているすこし上《あが》り気味《ぎみ》の腫《は》れ瞼《まぶた》をもった眼を、苦しそうにあげて云った。一番隅っこに居た園部は、立って窓をカタカタと上げた。強い風が窓からサッと吹き流れてきた。
ちょうど其の時、卓子《テーブル》の一つが明いたので、帆村はその仲間に入れて貰って競技を始めた。その席は、例のお仲間の卓子を正面に見るようなところだったので、彼は牌《こま》を握る合間《あいま》合間に顔をあげて、星尾助教授の手の内を後からみたり、川丘みどりの真白な襟足《えりあし》のあたりを盗《ぬす》み視《み》して万更《まんざら》でない気持になっていた。
それから帆村は、だんだんと競技に引き入れられて行ったので、例のお仲間連中の行動を一から十まで観察するわけには行かなかったが、あとから考えると、次に述べるようなことが、気にならないこともなかった。
第一は、麻雀ガールの豊ちゃんが入ってきて、星尾助教授の背後《うしろ》によりかかり、永い間積極的な態度をとっていたこと、それに対して星尾は、すこし迷惑らしい態度をしているのを知っておかしかった。
第二は、松山がスポーツ好《ごの》みで、
「ええいッ」
と大声をあげて場に積んである麻雀牌《こま》をひっぱってくることだ。気を付けていると、その度に、彼は麻雀牌の面《めん》に刻《きざ》みつけてあるしるし[#「しるし」に傍点]をギュッと強く撫でまわした。それがために、拇指《おやゆび》の腹が痛くなりはしないかと思われた。これは彼の悪い癖《くせ》である。
第三は、星尾助教授が、大きい和《あ》がりに躍りあがって喜んだ拍子に、隣りの園部の湯呑茶碗《ゆのみぢゃわん》をひっくりかえしてしまったことだ。大騒ぎになって牌《こま》をどかせるやら、濡れたところを拭《ふ》くやら、新しい卓子布《テーブル・クロース》を持ってこさせて、四人が四隅《よすみ》をひっぱって、鋲《びょう》で卓子へとめるやら、うるさいことであった。一度は、
「吁《あ》ッ、痛ッ!」
と松山が大声で叫んだので、みると、指の尖端《とっさき》を口中に入れて舐《な》めていた。なにか乱暴なことをやったものらしい。それを誰かが野次《やじ》ったものらしくドッと笑声がわきあがったが、どうしたものか、其後《そのご》一座は、たいへん静かであった。
「どうかしたの、みどりさん。どんな気持なんですか、ええ?」
園部が、その対門《むかい》にいるみどりを頓狂《とんきょう》な声で呼ぶのをきいて、帆村は何とは知らずハッとした。顔をあげてみると、どうしたというのだろう、川丘みどりの顔色が真蒼《まっさお》だった。常から透《す》きとおるように白かった皮膚から、血の気《け》がすっかり引いてしまって、まるで板|硝子《ガラス》を重《かさ》ねておいて、それを覗《のぞ》きこんだような感じがした。園部は、これも青くないとは云えない顔色に、憂《う》るわしげに眉《まゆ》をひそめて、みどりの顔色をのぞきこんでいる。
「早く医者にみて貰いなさい、僕、すぐ呼んできたげるから……」と園部は、心配で心配でいても立っても居られないという様子だった。
「みどりさん、気分でも悪いのかい」
星尾助教授も競技の手を休めて言った。
「いいのよウ、直《す》ぐなおるわよ」
「だけど、……そりゃ診《み》て貰った方がいいですよ、ね、ね」と園部は今にも馳け出しそうな姿勢をするのであった。帆村は思いあたるところがあった。例の仲間のうちで、川丘みどりをスポーツ・マンの松山虎夫と、星尾助教授とで張り合っているという世間公知《せけんこうち》のかたわら、園部も実はみどりを恋しているのだという噂はチラリと聞きこんだことがあったが、それはどうやら本当らしい。
「お、お、おれは」と其の時まで独り黙っていた松山が苦しそうに呻《うめ》いた。「おれは頭が痛い。眩暈《めまい》がする。少し休みたい、ウウ」
そう云うと、彼は立ちあがり、フラフラと室《へや》を出ていった。
「いやに病人ばやりだな」と星尾が呟《つぶや》いて、意味なく笑った。
一本歯の抜けたような松山の空席《くうせき》が、帆村の眼に或る厭《いや》な気持をよびおこさしめた。それは不吉《ふきつ》な風景である。折角《せっかく》こうして探偵たる気持をわすれて麻雀を打ち、のうのうとした気分になっている筈の彼の心は、いつの間にか掻《か》き乱《みだ》されているのを感ぜずには居られなかった。四人の面子《メンツ》が坐っている筈《はず》の麻雀卓《マージャンテーブル》から、一人が立って便所に行ったりすることは、よくあることではないか。それに自分は何故、こんなことを気にしているのだろう。だが、ふりかえって此《こ》の倶楽部にきたときからのちのことを考えてみるのに、自分は競技に夢中になりたいと思っていながら、実際は隣の卓子の様子ばかりを気にしていたではないか。彼は、この室に入って来た最初に、川丘みどりが、便所に立ったらしく一度席をあけたのを思い出した。しかしそのときは別になんとも怪《あや》しむ気にはならなかったのであった。それに今はどうして、気になるのであろうか。空席は同じ一つだが、今の場合は、みどりが気分のわるい様子で、ふさいでいるのが気になるのではあるまいか。若しそうだとすると、或いは自分も、本気でみどりを恋してるのかしら――園部や、星尾や、松山などと同じように。
松山といえば、どうして彼は帰ってこないのであろう。なぜに川丘みどりが真蒼《まっさお》になってから、急に松山も頭が痛むなどと病気になったのであろうか。果して松山は病気なのかしら。帆村の脳髄のうちには、何時《いつ》の間《ま》にやら、さまざまの疑問が湧いているのに気がついた。いや、これは浅間《あさま》しい探偵という職業意識である。今夜は仕事を忘れて、ただ麻雀を打っているのではないか。つまらんことは考えまい。――
そのうちに、取りのこされていた星尾と園部とみどりの三人は、もう勝負を争うことをあきらめたものか、卓子を離れて、この室を出て行った。帆村探偵は、ようやく安易《あんい》な気持になって、
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