競技に夢中になることができたのであった。
2
帆村探偵の卓子も、それから三十分ほどして、勝負が終った。最後の風に、莫迦あたりを取った彼は、二回戦で合計三千点ばかりを稼ぎ、鳥渡《ちょっと》いい気持になった。卓子を離れるときに、あたりを見廻すと、どの卓子もすでに客は帰ったあとで、白い真四角の布《クロース》の上に彩《いろどり》さまざまの牌《パイ》が、いぎたなく散らばっていた。時計を出してみると、もう十一時をすこし廻っていた。
隣りの広間《ホール》にも客はもう疎《まば》らだった。豊ちゃんが、睡そうな顔をして、近所の商店の番頭さんのお相手をしていた。
「豊ちゃん、さよなら」
「さよなら、センセ――じゃなかったホーさん」
「みんな、もう帰っちゃったかい」と、聞かでもよいことを帆村はつい訊《き》いてしまった。
「お嬢さんに、園部さんにシンチャンは、今帰るからって帰ったばかりよ。松山さんだけ奥に寝ている筈よ」
「ナニ、松山さんは本当に病気だったのか」
と帆村は、意外だという面持をした。
「あら、どうして? 気分がとても悪いんですって。お医者を呼びましょうかって、先刻《さっき》きいたんだけど、いらないって仰有《おっしゃ》ったのよ。シンチャン達、しばらく見ていなすったんですけれど、もう遅くなったし、帰るからあとを頼むって帰っちゃったんですわ」
「そりゃ、すこし薄情《はくじょう》だな」
「だってシンチャン達、遠いのよ。松山さんだけは、直ぐそこだから、そいでもいいのよウ」
と豊ッぺは、シンチャン達の郊外生活に同情ある弁明をこころみた。
「じゃ、僕、みてってやろうかな」
帆村探偵は、傍《そば》の小扉《ことびら》をあけて、小さな階段をコトコトと下《くだ》って行った。下《お》り切ったところが狭い廊下になっていて、そこにだだっ広《ぴろ》い室《へや》がある。そこは、この建物にいる皆の寝室だった。障子を開いてみると、果してそこに寝床が一つ敷いてあった。頭が痛いというのに、松山は頭から夜具《やぐ》をひっかぶって寝ていた。
「松山さん、松山さん、どうですか、気分は」
と帆村は、だんだん声を大きくしていったが、松山はウンともスンとも返事をしなかった。
(よく睡《ねむ》っている……)
帆村は、そっと障子をしめて踵《きびす》を二三歩、階段の方へ引返した。が、なにを考えたものか突然彼は、ふたたびとってかえすと、障子をガラリと開け、靴のままヅカヅカと、松山の寝床に近づいたが、ポケットから点火器《ライター》をとりだして、カチッと火をつけると、左手で静かに枕元の方へさしだし、一方の右手を伸ばして夜具《やぐ》の襟《えり》をグッと掴《つか》むと、ソッと持ちあげてみた。
「呀《あ》ッ――」
点火器《ライター》の淡黄色《あわきいろ》い光に照し出された一つの顔は、たしかに松山虎夫の顔であるには相違なかったけれど、そこには最早《もはや》あの活々《いきいき》とした朗《ほがら》かなスポーツ・マン松山の顔はなかった。顔面はドス黒く紫色に腫《は》れあがり、両眼は険《けわ》しくクワッと見開いて見《み》え能《あた》わざる距離を見つめていた。喘《あえ》ぎ終った位置に明け拡げられた大きな口腔《こうくう》のうちには、弾力を喪《うしな》った舌がダラリと伸びていた。真白な美しい歯並には、ネバネバした褐色の液体が半ば乾いたように附着していた。
「すっかり事切れている――どうやら中毒死のようだ。自殺か、他殺か。……」
流石《さすが》に彼は狼狽《ろうばい》もみせず、大きい声も立てず、だが眉宇《びう》の間に深い溝《みぞ》をうかべて、なにごとか、五分間ほど、考えを纏《まと》めているらしい様子だった。どこから風が来るのか、点火器《ライター》の小さい焔がユラユラと揺《ゆら》めくと、死人の顔には、真黒ないろいろの蔭ができて、悪鬼《あくき》のように凄《すざま》じい別人のような形相《ぎょうそう》が、あとからあとへと構成され、畳の上から伸びあがって帆村探偵に襲いかかるかのように見えた。
やがて探偵は、しずかに立って松山の死んでいる室を立出でて、又コトコトと音をたてて階上へとってかえした。彼は、もうセンセイでも、ホーさんでも無かった。それは帝都暗黒界の鍵《キー》を握る名探偵帆村荘六として完全に還元《かんげん》していた。
彼は麻雀ガールの豊ちゃん、ではない舟木豊乃《ふなきとよの》を静かによぶと、階下の惨事《さんじ》を、手短かに話をしてきかせた。声を出してはいけないと言って置いたけれども、
「まア、松山さんが死んでるんですって!」
と驚愕《きょうがく》したので、残っていた人達は、早くも事件が発生したことを悟《さと》って、わッと一時に席を立とうとした。帆村探偵は、そこで已《や》むを得ず、名乗りをあげて、御迷惑ながら、係官が到着して一応取調べがすむまで、御一同は一歩たりともこの室から外へ立出でないように願いたいと申渡して、一同を制した。一方、電話で、この変死事件を所轄警察《しょかつけいさつ》へ急報すると共に、別室に居たこのビルディングの番人に、とりあえず、死体のある室を守らせた。そして今にも泣き出しそうな顔をしている豊乃を促《うなが》して、特別麻雀室の入口に立たせ、室内はすべて其儘《そのまま》にとどめさせた。
「シンチャン達の家を知っているかい」
と帆村は、豊乃に訊《き》いた。
豊乃は、しばらくためらっている様子であったが、それからウンと黙って首を縦《たて》にふってみせた。
帆村は、事件の参考人として、さきに帰って行った星尾、園部、川丘みどりの三人を、出来るだけ早く、この場へ召喚《しょうかん》することが必要であると思った。豊乃の語るところによると三人は、ここから十五町ほどある道を市内電車で終点までゆき、そこから急行電車に乗りかえて三つ目のA駅で星尾は降り、小暗《こぐら》い田舎道《いなかみち》を五丁ほど行った広い丘陵《きゅうりょう》の蔭に彼の下宿があるそうである。次のB駅に園部は降りる。家は駅のすぐ近くで、両親のもとに住んでいる。そのまた次のC駅で、川丘みどりは降りる。駅の前を斜に三丁ほど入ったところに彼女の伯母の家があって、そこに寄寓《きぐう》しているとのことであった。
帆村探偵は、改めて電話を署にかけると、彼等の帰宅を擁《よう》して、即刻《そっこく》現場へ連れ戻ってほしいと希望をのべたのであったが、それは直ぐさま承諾された。
3
帆村探偵は、それがすむと、一秒も惜しいという風に、階下へ降りて行って、松山の屍体を入念に調べあげた。別に特別の発見もなかったが、唯一つ、右の拇指《ぼし》の腹に針でついたほどの浅い傷跡《きずあと》があって、その周囲だけが疣状《いぼじょう》に隆起《りゅうき》し、すこし赤味が多いのを発見した。これは松山が、白布《しろぬの》の張りかえのときに「痛いッ」と叫んだところのものであろうが、その傷はいつ頃からこうして出来ていたものか、詳《たし》かでなかった。毒物は、口から入ったか、注射されたか、またはこうした傷口から入ったのであるか、それは興味深い問題であるが、帆村探偵はこの傷跡をちょっと重大視したのである。
屍体の調べがつくと彼は階上にとってかえして、松山達が使っていた麻雀|卓子《テーブル》について綿密な取調べをしてみた。松山の坐っていた場所については特に注意を払い、布をひっぱったり、鋲《びょう》をはずしたり、刷毛《はけ》で埃《ほこり》をあつめて紙包をいくつも作ったりした。それから彼は卓子《テーブル》の下へ潜《くぐ》りこむと床に顔を押しつけんばかりにしてあちこち調べていたが、吸取紙《すいとりがみ》を四つに切って、四人の足の下と思われるあたりの床の上に、吸取紙《すいとりがみ》をジッと押しつけ、何物かを吸いとるようにみえたが、これも又別々の紙包にして鉛筆で記号をつけた。彼は卓子の下から出ようとして、不図《ふと》、みどりと松山の境界線にあたる卓脚《ていきゃく》の蔭に落ちていた針のない鋲の頭を見付けた。彼は注意深くピンセットでそれを拾い上げた。
それがすむと、帆村探偵は、牌《こま》を一個一個とりあげては、仔細《しさい》に観察していた。
そこへ判検事や捜査課の一行が到着したので牌の調べは一応やめて、一行を案内して屍体のある室へ行った。早速、警察医の手で診察がおこなわれた結果、中毒死であることが明瞭《めいりょう》となった。絶命してから、まだ一時間と経っていないことは、屍体の腋下《えきか》にのこる生《な》ま温い体温や、帆村の参考談から、証明された。しかしどんな毒物が用いられたか、又毒物がどこから入ったかは、屍体解剖の上ならでは判らないとのことであった。帆村は拇指《ぼし》の腹にある傷跡について一応係官の注意をうながしておいた。
麻雀卓子の辺《あたり》も、捜査が行われたが、それは帆村探偵のやったほど綿密なものではなかったのであった。
そこでいよいよ松山虎夫変死事件の詮議《せんぎ》がはじまることとなった。帆村探偵は、松山たちの動静《どうせい》につき、その夜見ていたままを、雁金《かりがね》検事と、河口《かわぐち》捜査課長とに説明した。それはこの物語の最初にのべたとおりのことであったが、彼、帆村探偵が見遁《みのが》した事実もかなり多い筈であると附け加えることを忘れなかった。
いろいろ意見が出たうちで、松山は自殺したものでないという点では、誰もが一致した。彼は自殺をするような性格でもなかったし、そのポケットから遺書らしいものはすこしも発見されなかったし、彼の銀行預金帳には多額の預金があったし、それに二通の手紙があって、一通は、みどりの弟たちからのもので明日の水泳大会を見るために兄さん[#「兄さん」に傍点]がおっしゃるとおり十時半|神宮外苑《じんぐうがいえん》の入口へ行っていると書いてあり、今一つはみどりの父からの手紙で、例によって子供たちの学資補助を仰いで恐縮《きょうしゅく》であるという礼状が金五十円也という仮領収証と共に入っていた。こんなにコンディションのよい彼が自殺するとは考えられなかった。尚《なお》そのことは、彼の机を調べ、彼の屍体を解剖した上で、更にハッキリ確められる筈であった。
それでは、松山虎夫は他人から殺害せられたものと仮りに定《き》めるとすると、一体誰が彼に毒物を盛ったのであるか、前後の事情を考えると、第一に疑いのかかるのは、その麻雀仲間の三人である。しかし三人について、これぞと思う証拠は係官の手に入ってはいなかった。
雁金検事が、こう云った。
「おかしいと云えば、川丘みどりが、死んだ松山と前後して、気持がわるくなった点だね。それに松山のポケットから出て来た手紙によると、松山は川丘みどりに対して、大分優越権をもっているらしいが、この二つの事実は反対の意味を持っているように思うんだが……」
「私にも二人の関係がハッキリしない」と河口警部が云った。「麻雀ガールにちょいと訊《き》いてみましょう」
豊乃が呼び出されて、例の仲間について知っていることを全部のべよと命令された。それは大体、帆村が前に述べたところと大差はなかったが、その外《ほか》にこんなことを云った。
「松山さんは、みどりさんのお家に沢山の補助をしているんですって。それは何でも松山さんのところへ、みどりさんがお嫁にゆくという話合いが、松山さんとみどりさんのお父様の間についているそうです。しかし、みどりさんは松山さんが余り好きではないらしいのです」
「じゃ、みどりさんは、誰が好きなんだね」
と河口警部が尋ずねた。
「さあ、それは……」と彼女は明かに当惑《とうわく》している様子で口籠《くちごも》ったが、「誰なんですか、よく存じません」と答えた。
帆村探偵は、豊乃が口籠《くちごも》った事情に見当がつくように思った。彼女はみどりが豊乃と同じく星尾助教授に多分の好意をよせていることを知っているのであろう。
「その話は誰から訊いたのかい」と検事が口を出した。
「園部さんがそう云いました。園部
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