探せば見付かるでしょう」
その脱脂綿《だっしめん》は果して屑籠の中にあった。
しかしそれでは脱脂綿について、星尾に対する嫌疑は、みどりのところから逆戻りの形になった。みどりから盗んだ綿は、星尾の手に入り、それから豊乃の手にうつったものとすれば、星尾が田舎道に捨てた毒物の附着している綿はどこから彼が持って来たのであろうか、彼自身が始めから持っていたものと解釈するより外ない。園部が捨てたのではないことは、星尾がその綿を所持していたことを自白している。しかし星尾は豊乃に奪取《だっしゅ》されたことを知らないらしい。
今や、事件の焦点は脱脂綿の出所《でどころ》にあつめられた。みどりの用意していた綿の外に、どこからか星尾が持って来た毒物の附着した綿があるのである。しかし、それの出所《でどころ》を確かめる鍵《キー》は、どこにも見当らなかった。随《したが》って松山殺しの犯人は星尾を最も有力とし、川丘みどりを第二とし、園部を第三とし、豊乃は多分犯人ではあるまいと思われるが、一応第四としてみたが、さてこれぞと思う有力な証拠もあがらなかった。事件は文字どおり迷宮《めいきゅう》へ入ってしまったのである。
5
其夜《そのよ》、帆村探偵は、彼の研究室に閉《と》じ籠《こも》って、事件の最初から今日の調べのところまで幾度となく、復習をしてみた。考えてみると、星尾とみどりの嫌疑の濃厚なのに比べて、園部については殆んど考えることがなかった。しかし、それは本当になにも疑うべき点が無《な》いのであろうかと、帆村探偵は一時、仮装殺人を園部の上にうつして考え直してみた。
的確なる証拠というものはなかったけれども、疑えば(一)園部が湯呑み茶碗をわざと倒されやすい場所に出して置いたと考えられること。(二)みどりが気分が悪いと云ったときに彼が非常に狼狽《ろうばい》したのは、彼が牌《こま》に塗りつけた毒物がみどりを犯したのではないかと危《あやぶ》んだせいではあるまいか。(三)園部の座席は一番隅で毒物を塗ったり、あとで毒物を脱脂綿で拭《ぬぐ》ったりするのを秘密にやりやすいこと。(四)星尾が脱脂綿を落したことを園部が刑事に教えたのは、他のことについては口を緘《かん》して語らない彼としては、不審な行動と思われないこともないこと。(五)園部が、わざと星尾と同じ駅に下車し、しかも人殺しの兇器になりそうな文鎮《ぶんちん》を買って持っていたことなど、不審と言えば不審である。けれどもそれは全くの不審にすぎないことで、証拠として残されたものは一つもないのであるから、まことに根拠は薄弱で、断罪《だんざい》の日には「証拠不十分」として裁判官から一蹴《いっしゅう》されるべき性質のものだった。
この個條書を、くりかえし眺めていた彼は突然、
「こりゃ、可笑《おか》しいぞ」
と呟いた。
(五)の個條のところで、園部が文鎮《ぶんちん》を買ったことを指摘しているが、若しこれは園部が星尾を帰宅の途中で殺害するつもりで用意したものとすると、一体園部はどんなきっかけから星尾を殺す決心を急に起したのであるか。そんな下手な殺し方をすれば彼のしたことは直ぐ判明する筈であった。それが判らぬ彼ではないのに、敢《あ》えてそうしたのは、急に何か星尾に握られたものがあったのではあるまいか。刑事が行き合わなかったら、星尾はすでに此《こ》の世《よ》の人でなかったかも知れないのである。
そう考えると、彼は星尾に会って問《と》い訊《ただ》したいと思った。仕度をすると、直ぐに留置場へ行き星尾に、何か陳《の》べわすれているものはないか、特に電車の中あたりで何か無かったかと尋ねてみた。
星尾は別に大したことはなかったようだ。言いわすれたのは、電車の中で自分が不用意にも下に落した脱脂綿を遽《あわ》てて拾いあげるところを園部にみられた位のことだと言った。
念のために、川丘みどりを引出して、云い忘れたことはないかと尋ねたところ、彼女は前よりもすこし落付きを見せて答えた。
「わたし、ちょっとしたことを忘れていましたのよ。それは倶楽部《クラブ》で麻雀をうっているとき、不図《ふと》足の下を見ますと、アノ脱脂綿が落ちていましたもんで、まア恥《はずか》しいことだと思いソッと拾いあげたんです。それは、もうやめるすこし前のことでした。たしかに拾いあげて袂《たもと》に入れた筈の脱脂綿が、あとで気がつくとなかったんです」
それは明らかに、第一の綿を星尾に盗まれた後の出来事に違いなかった。その綿には例の毒薬がついていたのだ。これは後に星尾の手に入ったものである。そこで彼は思いついて尋ねた。
「あなたは、電車の中で、どこに坐っていましたか」
「そうですね、あの時はあまり蒸し暑くて苦しかったものですから、となりの電車の箱との通路になっているところの窓をあけて涼んでいました。あそこは、電車の速力が加わるととても強い風が吹きこんできて、あたし、やっと気分が直ってきましたのよ」
帆村探偵はハタと膝をうった。そのとき、強い風のため、みどりの袂《たもと》から脱脂綿が吹き飛ばされると、コロコロと転《ころが》って星尾の前に行ったのであろう。星尾は第一の綿を豊乃に盗まれたことは知らぬから、それは自分が落したものと勘違いをしてあわてて拾いあげたものであろう。すると、問題はいよいよ狭くなった。川丘みどりが麻雀倶楽部《マージャンクラブ》で拾った毒物《どくぶつ》のついた綿は、誰が落したのであるか。
園部が星尾に対して殺意を生《しょう》じたわけが、始めてうまく説明がつくようになった。その綿は無論、園部が犯行に使ったもので、つい誤って下袴《したばかま》の間から落して、川丘みどりに拾われたものであろう。しかし、それとても彼の自白を待たぬば格別立派な証拠物はないのだ。園部のおどろくべき犯罪天才は、奇抜な方法で友の一人を殺し、他の二人の友人に濃厚な嫌疑をかけることに成功している。容易なことでは園部に自白を強《し》いることはできない。
帆村探偵は苦しそうな呻《うめ》き声を洩《もら》しつづけて、ものの三十分も考えていたが、軈《やが》て[#「軈《やが》て」は底本では「軈《やがて》て」]急に輝かしい面持《おももち》になって立ちあがると、宿直の警官を煩《わずら》わして、雁金検事や河口捜査課長の臨席《りんせき》を乞うた上で、園部をひっぱり出した。園部は、割合《わりあい》に元気に、美しい顔をニコつかせて帆村の前にあらわれた。それは如何にも自信あり気《げ》に見えて、帆村探偵の敵愾心《てきがいしん》を燃えあがらせた。
帆村は彼を前にして、松山虎夫殺害事件の詳細を細々《こまごま》と語り出した。
園部は、彼の名が出ても、また彼が殺人魔として活躍している状況を詳しくのべられても、まったく顔色一つ変えなかった。
帆村探偵はソロソロ自《みずか》らの仮定が不安になってきたが、今に見ろと元気を鼓舞《こぶ》して、最後の切り札をなげだした。
「ところが、巧妙なる犯人が、唯《ただ》一つ気がつかなかったことがある。それはこれです」
と彼はピンセットの尖端に針のとれた鋲《びょう》の頭をつまみあげて云った。
「この鋲の頭には二つの指紋がついていたのです、よろしいか。一つは、無論、これで傷口をこしらえた故松山虎夫君の指紋です。今一つは彼の指紋ではない。この鋲を彼に使わせるように計《はか》らった彼《か》の犯人の指紋なんです。用意周到な犯人が、ありとあらゆる証拠を湮滅《えんめつ》することに成功しながら、唯一つ置き忘れた致命的の証拠なのです。
どうです。心憶《こころおぼ》えはありませんか。そうでしょう。犯人は牌《こま》に塗った毒薬をアルコールのついた脱脂綿で拭うことに夢中になって、この鋲《びょう》の頭にのこる指紋を拭くことを忘れてしまったのです。――そこで園部さん、君の指紋をちょいと取らせていただきたいんですが……」
園部の顔色《がんしょく》はこのとき急に蒼白《そうはく》に変じ、身体をブルブルと震わせたが、
「すまない、松山君!」
そういうと、背後へドウと倒れてしまった。
* * *
「あの鋲の頭に犯人の指紋はないと、君は言ったではないか」
と雁金検事が不審そうに、あとで帆村に訊《き》いた。
「いやあれは――」
と帆村が頭を掻《か》きながら言った。
「いやあれは兵法《へいほう》ですよ。あんなに機械のように正確な犯罪をやりとげた犯人も、やっぱり機械でない悲しさには、思いもつかぬことを指《さ》されると、ハッキリ用意ができていないために、急に『不安』が入道雲《にゅうどうぐも》のように発達して、正体まで顕《あらわ》してしまうのですね。これは屡々《しばしば》河口警部のお使いになる手で、私のは機を覘《ねら》ってうまく逆手に用いて成功させたのです。しかし逆手をつかったことといい、犯罪を目の前にみていて気がつかなかったことと云い、徹頭徹尾《てっとうてつび》私の大敗北ですよ」
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年5月号
入力:taku
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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