へたへたと足許に崩れるようにのびたのを見れば、これも下士官だった。なんと弱い奴ばかりではないか。
(そうだ。杉田の用に、この下士官の服をもらってゆこう)
 川上機関大尉は、また相手の服をぬがせにかかった。
 ところが、この相手はなかなか手強い奴だった。彼は人事不省を装っていたのだ。だから川上機関大尉のちょっとの油断をみすますなり、隠しもっていた呼笛を口にあてて、ぴーいと一声高く、乗組員に急をつげた。
「うむ、やったな!」
 川上機関大尉は、電気にかかったようにとびあがった。そこへつけこんで、相手の巨漢は、むずと組みついてきた。
 川上機関大尉は、舷に押しつけられてしまった。大した力の相手だった。川上は懸命に、相手の胸許にこっちの頭をつけて、押し潰されまいと耐えているが、相手は勝ち誇ったように、いよいよぐんぐん押しつける。
 川上機関大尉の武運は、眼に見えて悪くなった。そうでなくとも、ここ連日の苦闘と空腹とに、かなり疲れている川上機関大尉だった。はりきった牡牛のような英国下士官とは、とてもまともな力くらべはできまいと思われた。
 そのとき、向こうの方で、あわただしく集合|喇叭《ラッパ》が鳴った。さっきの呼笛を聞きつけて、警備班が出動をはじめたらしい。早くも奥の通路から、入りみだれた靴音が聞えてきた。こうなっては、わが川上機関大尉がいかに勇猛であるといっても、敵勢を押しかえすことは、まず困難ではないかと思われた。
 壮図はついに空しく、わが大勇士川上機関大尉は飛行島の下甲板に散るのであろうか。
 もしそんなことがあれば、いま組立鉄骨の間に病体をしばりつけて、ひたすら彼のかえりを待ちわびているはずの杉田二等水兵は、どうなるであろうか。
 このときわが勇士の様子をみるなれば、彼は、猛牛のごとき敵の下士官とがっちり組みあったまま、一、二、三、四としずかに呼吸をかぞえていた。そして彼の眼は、ときどきちらりと足許に転がっている日本刀の方へうごいていた。
 川上機関大尉は、いま何を考えているのであろうか。
 飛行島戦隊は、この騒《さわぎ》をよそに、風雨荒れ狂う暗闇の南シナ海をついて、ぐんぐん北上してゆくのであった。


   消えぬ怨


「リット少将!」
 提督は、わが名を呼ばれてびっくりした。その声は少女の声であった。
「リット少将!」
 また呼んだ。
 リット少将は、その声のする方を見た。そこは真青な海原だった。絵に描いたような美しい夜の海原だった。少女の声は、すぐ下の波の間から聞えるのだった。
「誰か?」
「私です」
 それは聞いたことのある声だった。しかしリット提督には、声の主の姿が見えなかった。
(不思議なことがあればあるもの……)
 提督は念のために舷のところまで歩いていった。そして舷側につかまって下を見た。
「おお」
 提督はぎくりとした。
 舷側を洗う白い飛沫《しぶき》の上に、一人の少女の寝姿があった。梨花だ。中国少女の梨花だ。鋼鉄の宮殿の中を、栗鼠のようにちょこちょこととびまわって、雑用をつとめていた梨花の姿だった。
「梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい」
「リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください」
「ふん、厄介《やっかい》な奴じゃ。ほら、手を出せ」
 提督は手を出して、梨花の手を握った。それはびっくりするほど冷たい氷のような手であった。少女一人くらいと思って、提督はひっぱりあげにかかったが、どうしたのか大盤石のように重い。
「うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか」
「ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ」
「皆って、誰のことだ」
 提督は、ぎょっとして、改めて海面を見おろした。
 そのとき不思議にも、海の中は電灯がついたように、明るくなった。そして梨花の腰から下にとりすがっている真青な顔をした二人の看護婦の姿が見えた。またその看護婦の下には、顔や肩を赤く血に染めた大勢の苦力《クーリー》がぶらさがっている。そのまた下に、川上機関大尉や杉田二等水兵も見える。そのほか印度人やフイリッピン人や白人や、見れば見るほど何百人というたいへんな数である。彼等は、海底に横たわる一隻の汽船の船腹を足場として、人梯子をよじのぼってくる。海底にある地獄の風景だ!
 ぐーっと、肩もぬけそうな強い力が、リット提督を海中へひっぱりこもうとした。
「こら、無茶をするな」
 そのとき提督は、海底に横たわる船腹にブルー・チャイナ号という船名を読んだ。
「あ、ブルー・チャイナ号! わしが沈めた汽船だ。さては、この連中は」
 提督の背筋が急に冷たくなった。
「うっ、亡者ども、わしを海中へひっぱりこもうというのか。なにくそ、ひっぱりこまれてたまるか」
 提督は、あぶら汗をかいて、うんうんうなりだした。ひっぱりこまれまいとするが、刻一刻、提督の体は舷を超えて海面へ落ちようとする。恐しい執念だ。――
「リット提督!」
 提督の耳に、はげしく扉を叩く音が聞えた。
「ううーん、ううーん」
「提督、どうされました。スミス中尉です」
「なに、スミス中尉。お前もか」
 と叫んだが、途端に提督は夢からはっと覚めた。彼はベッドの中で、自分で自分の喉をしめていたのだ。
「ああ夢だったか。恐しい夢もあったものだ。ああ、夢でよかった」
 提督は、全身汗びっしょりだった。
 つづいてはげしいノックの音!
「提督、ど、どうされました。スミス中尉です。早くここを開けて下さい」
「おお」提督はほっと大きな息をついて、ベッドからよろよろと下り、「スミス中尉か。いま開けてやる」
 扉を開けると、外は真暗で、嵐を呼ぶ物凄い潮風が、ひゆうひゅうと鳴っていた。そして、きりっとした武装に身をかためたスミス中尉が、片手には手提《てさげ》電灯を、また片手にはピストルを握り、一隊の水兵をひきつれて立っていた。


   非常呼集


「おお、スミス中尉か。よく来てくれた。しかし夜中、一たいこれは何ごとか」
 リット提督は、心に覚《おぼえ》のある悪夢に虐《しいた》げられ、まだ幾分の弱気で中尉にすがりつかんばかりだった。
「ああ提督閣下」とスミス中尉は、まじまじと正面から顔うちながめ、
「御病気ではなかったのですね。それはよかった」
「うん、――」
「提督閣下。哨戒艦から、しきりに信号があります。どうもわが飛行島大戦隊を外部から窺っているものがある様子です」
「なに、外部から窺っているものがあるというのか。また日本の潜水艦か」
「いや、それはまだはっきり分かっていません。とにかく、わが戦隊は目下極秘航行中でありますので、無電を発することを禁じてありますため、信号がなかなかそう早くは取れないのであります。無電を出すことをお許しになりませんと、わが大戦隊はいざというときに、大混乱をおこすおそれがあります」
「いや、無電を出すことを許せば、わが飛行島大戦隊の在所《ありか》を、敵に知らせるようなものじゃ。そいつは絶対に許すことができぬ」
 リット提督はこのへんで、やっとふだんの提督らしい威厳をとりもどしたようであった。
「はあ、分かりました」
 スミス中尉は、やむを得ないという顔をして、
「では当直へ、そのように伝達いたします」
「うむ」
 スミス中尉が、室を出てゆこうとした時、
「ああスミス中尉。ちょっと待て」と提督は声をかけた。
「はあ、何か御用でありますか」
「わしは今夜司令塔へ詰めようと思う。だからあと三十分も経ったら、ここへ迎えにきてくれんか」
「はい、かしこまりました。すると今夜はもうお寝みにならないのですか」
「うん、わしは今夜、もう寝るのはよした」
「御尤もです。私も今夜あたり、どうも何か起りそうな気がしてなりません。提督が司令塔にお詰めくだされば、わが飛行島の当直全員もたいへん心丈夫です」
 スミス中尉は、提督が悪夢におびえて睡られなくなったのだとは知らないから、リット提督が司令塔へ出かけるようでは、今夜はよほど警戒しなければならぬわけがあるのだと思った。
 リット提督も、スミス中尉を戸口まで送ったが、彼の耳には、甲板の索具にあたって発するすさまじい嵐の声が、なんだか亡霊の呻声のように思われた。
 中尉が水兵たちをひきいて立ち去ろうとした時、はるか後方の下甲板から、警笛がひゅーっとひびいた。そしてピストルの乱射の音につづいて、うわーっという鬨の声があがった。
「あ、あれは何だ」
 リット提督は、きっとなった。
「さあ、どうしたのでしょうか」
 スミス中尉も怪訝な面持であった。彼はまだ何の報告もうけていない。
 その時、甲板を一散にこっちへ駈けてくる下士官があった。彼は、提督室から洩れる灯かげを片面にうけて立っているスミス中尉を認めるや、
「おおスミス中尉!」
 と、息せききって声をかけた。
 スミス中尉が、何かいおうとした時、かの下士官は、息をはずませて叫んだ。
「スミス中尉、飛行島内に、怪漢がまぎれこんでいて、下士官が二名やられました。すぐ下甲板へおいでを願います」
「なに、怪漢がまぎれこんだと。よし、すぐ行く。全隊、駈足!」
 スミス中尉は、怪漢暴行中との知らせをうけ、さてこそ大事件発生だとばかり、下士官のいうことをよくも確めず、宙をとぶようにして駈けだしていった。
 残ったのは、伝令と称する下士官ひとりとなった。
 リット提督は、不安の面を向け、
「おい、下甲板で、どんなことが起ったのか。早くその様子を話して聞かせよ」
「はい。大変なことになりました。怪漢はやがてこっちへやって来るかもしれません。提督、どうか奥へおはいり下さい」
「うむ、――」と、提督は、後退りしながら、はっとした思いいれで、
「おお、お前は誰か」
「私は――」
「お前は怪我をしているじゃないか。胸のところが、血で真赤だぞ。お前はそれに気がつかんのか。おや、右の腕も――」
「リット提督閣下。御心配くだすって、なんとも恐れいります。が、まあ中へおはいり下さい」
 かの血まみれの下士官は、提督につづいて、ひらりと室内へはいった。そして扉をぴたりと閉めた。そのとき提督は、かの下士官が、なにか棒切のようなものを、後にさげているのを認めた。それは室内にはいって、電灯の光を反射して、きらりと閃いた。
「うむ、お前は――」
 提督は、驚きのあまり、言葉を途中でのんだ。そして顔面蒼白!
 この下士官こそ、誰あろう、われ等が大勇士、川上機関大尉、その人であったのだ。


   巨人対巨人


 リット提督対川上機関大尉!
 巨人と巨人との、息づまるような対面だ。飛行島は、まだ何事も知らず、闇夜の嵐のなかをついて、囂々《ごうごう》と北東へ驀進《ばくしん》しつづけている。
 どうして川上機関大尉がここへ姿を現したか。彼は下甲板の格闘で、強力無双の敵下士官のため、すでに手籠にあおうとしたが、幸いにも伸ばした右手が、甲板に転がっている日本刀にかかったので、苦もなく強敵を斃すことができ、そのまま血刀をひっさげて、リット少将を襲ったのであった。
「うむ、お前は――」
 リット提督は、じわじわと後へ下ってゆく。
「提督、もうどうぞその辺で、お停りください」と、川上機関大尉はどっしりした声に、笑みをふくんでいった。
「うむ、――」
 提督は、もう唸るばかりだ。銀色の頭髪が、かすかに震えている。
「提督。今日までに、よそながらちょくちょくお目にかかりましたが、こうして正式に顔を合わしますのは、只今がはじめてであります。申しおくれましたが、私は大日本帝国海軍軍人、川上機関大尉であります」
「うむ、カワカミ! 貴様は、まだ生きていたのか」
「そうです。生きているカワカミです。こうして親しくお目にかかれることを、永い間待ち望んでいました。私としましては、この上ないよろこびであります」
「もうわかった。そんなことはどうでもよい。わしの室へ、物取のように闖
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