浮かぶ飛行島
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)馬来《マレー》半島

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)裏|街《まち》

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(例)鉄筋コンクリートのうき[#「うき」に傍点]を
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   川上機関大尉の酒壜


 わが練習艦隊須磨、明石の二艦は、欧州訪問の旅をおえて、いまやその帰航の途にあった。
 印度を出て、馬来《マレー》半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡を東へ出ると、そこは馬来半島の南端シンガポールである。大英帝国が東洋方面を睨みつけるために築いた、最大の軍港と要塞とがあるところだ。
 そのシンガポールの港を出ると、それまでは東へ進むとはいえ、ひどく南下航路をとっていたのが、ここで一転して、ぐーっと北に向く。
 そこから、次の寄港地の香港まで、ざっと三千キロメートルの遠方である。その間の南北にわだかまる大海洋こそ、南シナ海である。
 練習艦隊はシンガポールを出てからすでに三昼夜、いま丁度北緯十度の線を横ぎろうとしているところだから、これで南シナ海のほぼ中央あたりに達したわけである。
 カレンダーは四月六日で、赤紙の日曜日となっている。
 夜に入っても気温はそれほど下らず、艦内は蒸風呂のような暑さだ。
 この物語は、二番艦明石の艦内において始る。――
 天井の低い通路を、頭をぶっつけそうにして背の高い逞しい士官が、日本酒の壜詰を下げてとことこ歩いてゆく。汐焼した顔は、赤銅色《しゃくどういろ》だ。彼は歩きながら、エヘンと咳払《せきばらい》をした。
 士官は、ある一つの私室の前で足をとめた。そして大きな拳固をふりあげて、こつこつと案外やさしく扉《ドア》を叩く。
「おう、誰か」
 と内側から大きな声がする。
 訪問の士官は、ちょっと緊張したが、やがて硬ばった顔をほぐして、
「俺だ。川上機関大尉だ。ちょっと邪魔をするがいいかい」
 するといきなり扉《ドア》が内側にぽかりと開いて、
「なんだ、貴様か。いつもに似ず、いやに他人行儀の挨拶をやったりするもんだから、どうしたのかと思った。おう、早く入れ」
「はっはっはっはっ」
 のっぽの川上機関大尉は笑いながら、ぬっと室内に入る。
「おい長谷部。これを持ってきた」
 と、酒壜を眼の前へさし出せば、長谷部大尉は眼をみはり、
「やあ、百キロ焼夷弾か。そいつは強勢だ。まあ、それへ掛けろ」
 長谷部大尉は、上はシャツ一枚で、狭いベッドの上にあぐらをかく。川上機関大尉は椅子にどっかと腰を下した。
 二人は同期の候補生だった。そして今も同じ練習艦明石乗組だ。
 もっとも兵科は違っていて、背高のっぽの川上大尉は機関科に属しており、長谷部大尉は第三分隊長で、砲を預かっていた。
「これでやるか、――」
 と長谷部大尉は、バスケットから九谷焼の小さい湯呑と、オランダで土産に買った硝子《ガラス》のコップとをとりだす。
「ええ肴《さかな》は――と」
 といえば、川上機関大尉は、
「肴は持ってきた」
 といいながら、ポケットから乾燥豚の缶詰をひっぱり出した。
「いよう、何から何まで整っているな。おい川上、今日は貴様の誕生日――じゃないが、何か、ああ――つまり貴様の祝日なんだろう」
「うん、まあその祝日ということにして、さあ一杯ゆこう」
「やあ、いよいよ焼夷弾を腹へおとすか。わっはっはっはっ」
 二人は汗をふきながら、生温かい故国の酒をくみかわすのであった。


   南シナ海の怪物


 しばらくすると、二人の若い士官は、どっちも真赤になってしまった。
「なあおい長谷部。貴様と俺とは、昔から不思議にどこへでもくっついて暮すなあ」
「うん、そうだ。血は分けていないが、本当の兄弟とよりも、貴様とこうやって一緒に暮している月日の方が長いね。なんしろ小学校時代からだからねえ」
「これまで、よく貴様に厄介をかけたなあ」
 と、川上は急にしんみりいう。
「厄介をかけたり、かけられたりさ。これが本当の腐れ縁だ。はっはっはっ。貴様は今夜どうかしとるぞ。さあ元気を出せ。持ってきた酒を空にしてみせろ」
 と、長谷部大尉は、また酒をなみなみと友のコップの中に注いで、
「おい川上、そういえば報告を聞いたろうが、明日はいよいよ海上に面白いものを見られるぞ」
 と、話題をかえる。
「うん、あの飛行島のことかい」
「そうだ、飛行島だ。こいつはこんどの遠洋航海中随一の見物だぞ」
 明日は見られるという飛行島!
 それは広い広い海の真只中に作られた飛行場だった。もちろんその飛行場は、水面に浮かんでいるのだった。沢山の丈夫な錨によって海底へつながっているから、どんな風浪にもびくともしない。
 大きさは、ドイツの大飛行船ヒットラー号よりも何十メートルか大きいというから、東京駅がそのまま載って、まだ両端へ百メートルずつ出るという長い滑走路を造るのだそうだ。
 この飛行島は、目下建造中である。
 南北及び東西の航空路の安全をはかるため、特に南シナ海の真中に、飛石のように置いた不時着飛行場で、これさえあれば、その両航空路はどんなに安全さを加えるかしれないというのだ。
 そのために、飛行島株式会社というのが出来て、南シナ海をとりまく諸国――つまり英国が主となり、仏国、米国、オランダ、暹羅《シャム》、中国の諸国を表面上の株主として、莫大な建造費を出しているのだった。工費は、おどろくなかれ千五百万ポンドというから、日本の金に直して、約二億五千万円となる。なんにしても、凄いものである。
 この大工事を引きうける会社をつのったところ、入札の結果、それは英国のトレント船渠《ドック》工場会社に落ちた。だから南シナ海へのりだして海中作業をやっているのは英国系の技師だった。その大工事に、いま働いている人員は三千人というおどろくべき数に達していた。三千人といえば、その毎日の食料品を考えてみただけでも大変な費用だった。
 いまや世界中がおどろきの眼をあつめているこの飛行島が見られるというのだから、わが須磨明石二艦に乗組んでいる血の気の多い士官候補生たちにとっても、明日という日がどんなにか待たれていた。
 その時川上機関大尉は、コップの酒をぐっとのみほして、長谷部大尉にさしながら、
「おい、貴様は今から飛行島にすっかり呑まれてしまっとるようだが、なぜあんなところに飛行島をこしらえたか知っとるか。どうだ、長谷部」
 一方は九谷焼で酒をうけながら、
「ははあ、また貴様の口頭試問がはじまったな。俺は飛行島を少しも気にしていないよ。ただ築造中の飛行島を見て、ちょっと驚きたいと思っているばかりさ。それとも貴様はなにか、あの飛行島をこしらえるわけをくわしく知らにゃ許さんというのか、たかがああいう馬鹿げた無用の不時着場を、――」
 川上機関大尉はにやりと笑って、
「それ見ろ、気にしていないなんていっていながら、貴様はちゃんと飛行島のことを考えているじゃないか。無用の不時着場!(無用の)といったね」
「それはそうさ。飛行機は、ますます安全なものになり、快速になってゆく。だからあんな飛行島なんてものはいらなくなるよ。無用の長物とはあのことだ。わが国でもしあれに金を出すやつがいたら、俺は大いに笑ってやるつもりでいた」
「しかしなあ長谷部。そこのところをよく考えおかないじゃ、未来の連合艦隊司令長官というわけにはゆかないよ」
「うふ、未来の連合艦隊司令長官か、あっはっはっ。俺がなることになっていたっけ」
 長谷部大尉は、酔うといつもそういう気焔をあげるのが癖だった。
「それなら一つ考えろ」
「なにを考えるんだ」
「つまりこういうことだ。たかが長谷部大尉にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ、千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるんだ」
「うむ、なるほど」
 長谷部大尉は、ぎくりとして九谷焼を下に置いた。そして腕組をすると、
「なるほどねえ、――」
 と、もう一度なるほどをいった。
 川上機関大尉は、すっかりいい気持になって、盛んに酒盃をあげながら、
「おい、未来の提督よ。飛行島の話はそれまでだ。この次、日本酒をのむことがあったら、そのとき今のことをもう一度思い出してみてくれよ。いや、口頭試問はこの辺で打切として、まあ落第点は可哀そうだから、大負けに負けて六十点をやるかな。うわっはっはっ」
 川上機関大尉は、はじめて腹の底から声を出して笑った。


   司令官に面会


 その翌朝のことであった。
 長谷部大尉は、毎朝の日課の点検その他が終ると、ひとりでことことと狭い鉄梯子を伝って機関部へ下りていった。
 当番下士官が、椅子からとびあがって、さっと敬礼をした。
「おう。川上機関大尉はいられるか」
 するとその兵曹は直立したまま、
「はっ、川上機関大尉は只今御不在であります」
「ほう、どこへ行かれたのか」
「旗艦須磨へ行かれました。司令官のところにおられます」
「なに、司令官のところへ。――うむ、ではまたあとから来よう」
 長谷部大尉は、また元の梯子をのぼっていった。
 昨夜《ゆうべ》は川上機関大尉のもちこんだ日本酒でひどくいい気持になり、いいたいことをいって寝てしまったが、今朝になると、なんだか昨夜のうちに落し物をしたような気がしてならない。
(はて、何かな?)
 と思って考えてみて、やっとのことで思い当った。
(そうだ、川上のやつ、なんだかいやに影が薄かったぞ)
 そこで友の身の上を思って、機関部までたずねてきたわけだが、いまも聞けば、彼は旗艦へ行って、司令官のところにいるという。朝から何の用事だか知らないが、元気にやっていればなによりのことだった。
 大尉の足は、いつしか甲板へ出ていた。
 きょうも熱帯の海は、穏やかに凪《な》いでいる。見渡せば、果しのない碧緑の海であった。そして海ばかりであった。ただ前方二百メートルを距てた向こうに、旗艦須磨が黒煙をはきながら白い水泡《みなわ》をたててゆく。
 ぽぽーと、汽艇の響が、右舷の下でする。
 舷梯下に、汽艇がついたらしい。
 大尉が見ていると、舷門についていた番兵が、さっと捧銃《ささげつつ》の敬礼をした。誰か下から上ってきたようである。
 はたして長身の士官が上ってきた。川上機関大尉であった。
「おお川上が帰ってきた」
 長谷部大尉はそれを見ると、にこりと笑ってその方へ足早に歩いていった。
「おい川上。いま貴様を訪ねていったところだ」
「よお、長谷部か。はっはっはっ、もう酒はないぞ」
「酒はもうのまんことにきめた。おや、貴様は一杯機嫌だな。朝から酒とは、どうも不埒千万、けしからんじゃないか」
「はっはっはっ。ここへもう出とるか」と川上機関大尉は、自分の頬を指さした。昨日とはちがって、みちがえるように朗らかだった。
「司令官をお訪ねしたら、『一盞《いっさん》やれ』と尊い葡萄酒を下されたんだ」
 と心持形をあらため、あとは、
「いい味だったよ。はっはっはっ」
 と笑にまぎらせる。
「おい、川上。司令官のところでは、なにかいい話でもあったのか。あったら俺にも聞かせろ」
「いや、それは何でもないことなんだ。隠すわけじゃないが、悪く思うな。司令官と雑談のときに貴様の話も出たぞ。閣下は貴様を信頼していられる。長谷部のことは心配いらぬ。といっていられた。彼は沈黙の鋼《はがね》の塊みたいな男だ。川上――というと俺のことだが、川上とはまるで違った種類の男だ。彼が健在であることは帝国海軍にとっても喜ばしいことだなどと、大いに聞かされちまった」
「……」
 長谷部大尉はなんの感情もあらわさない。いきなり川上機関大尉の手をとってぐっと握り、
「俺のことはどうでもいい。おい川上、ただ俺は貴様の武運を祈っとるぞ」
「何っ、――」
 と川上機関大尉が意外な顔をする。
「はっはっはっ」
 と、こんどは身体の丸い長谷部大尉が川上機
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