曾呂利青年は、さらにこえを低くして、
「あなたは、まだほんとうに気がついていないのですね。その怪しい事件というのは、ほかでもありません。団長の松《まつ》ヶ|谷《や》さんが、やっぱりさっきから、行方不明《ゆくえふめい》になっていることです」
「えっ、松ヶ谷団長が?」と、房枝は、意外なことをきいて、びっくりした。
「曾呂利さん。あなたはどうして、そんなことを、お知りになったの」
誰が、そんなことを知っているだろうか。それを知っているのは、この謎の青年、曾呂利本馬だけではないか。房枝はさっきから、この曾呂利青年に、たしかにあやしい節《ふし》があるとにらんでいたので、ことばするどく問いかけた。
しかし曾呂利は、あんがいおちついた態度で、
「いやなに、僕は、べつに団長の船室へいって、それをたしかめたわけではないのですが、ただそういう気がするのです」
「うそ、うそ。曾呂利さんは、ずるいわ。ほんとうのことを、おっしゃらないのね」
「今いっているのは、ほんとうのことですよ。だって、誰にだって、そういうふうに考えられるではありませんか」と、事もなげに、いってのけ、
「ねえ、いいですか。トラ十のことで、これだけ、皆がさわいでいるのに、かんじんの松ヶ谷団長がちっともあらわれないではありませんか。あの耳の早い、そして人一倍に口やかましい団長が、なぜ、ここへとんでこないのでしょう」
「あら、そうね」
「ね、わかるでしょう。ミマツ曲馬団の中に起ったトラ十事件のさわぎをよそにして、ここへかけつけないところを思うと、これはどうも、団長も、行方不明になっているのじゃないかと思うのです」
「まあ、曾呂利さん。あなたはこれまで、青い顔をした、いくじのない方だと思っていたけれど、今日は、とても、すばらしいのね。まるで名探偵そっくりだわ」
「房枝さんは口が上手《じょうず》だね。そんなに僕をひやかすのは、よしにしてください」
「いや、ほんとうのことをいっているのよ。あたしいつだか、新聞だったか、本だったかで読んだのですけれど、帆村荘六《ほむらそうろく》という名探偵があるでしょう。その名探偵帆村荘六のことを、今思い出したのよ。そう名探偵は、背が高くて、青い顔をしていて、唇をへの字にまげるのがくせなんですって」と、いいながらも、房枝は、目の前にいる曾呂利本馬が、ひどく帆村荘六に似ていることに気がつくと、なんだか、おそろしくなった。
「房枝さん。そんなばかばかしい話はもうよしにしましょう」
そういっているときだった。ろうかのむこうに、がたがたと、高い足音がきこえ、こっちへ、急いでくる様子だった。食堂へとびこんできたのをみると、それは、さっき甲板へ様子を見にいった連中だった。
「おい皆、船は大丈夫だから、安心しろ」
「えっ、大丈夫か。沈没するような心配はないか」
「うん、沈没なんかしやせんよ。さっきの爆弾は、左舷《さげん》の横、五、六メートルの海中で炸裂《さくれつ》したんだそうだ、それだけはなれていりゃ、大丈夫だ」
「へえ、そうかね。こっちの船体に異状がないと聞いて、大安心だ」
「なにしろ、灯火管制中だから、明りをつけて検査するわけにはいかないが、船腹の鉄板が、爆発のときのひどい水圧で、すこしへこんだらしい。しかし、大したことはないそうだ」
報告は、なかなかくわしい。
「爆発は、もう、それっきりなんだろう」
「そうだ」
「じゃあ、あとはもう心配なしだな」
と、一同は、ほっとためいきをついた。
「それから、もう一つ、へんな話をきいたぞ。甲板に立っていた船員の一人が、あの爆発のときに、たおれたんだそうだ。ほかの者が、それを見つけて抱きおこした。爆発の破片で、からだのどこかを、やられたんだろうと思ってしらべてみた。すると、別にどこもやられていない。そのとき、へんだなあと思うことが一つあった。お前たちは、それが分かるか、そのへんだなあという一件が」
「そんなこと、分かるものか。早くしゃべれ」
「それは、奴《やっこ》さんのたおれた場所に、きれいな花が、ばらばらと落ちていたんだ。だから、奴さん、爆弾にやられたんじゃなくて、花束でもって、なぐられたんじゃないかって、誰かそういっていたよ」
「へーえ、花束でなぐられて目をまわしたというわけか。まさか、はははは」
房枝も、さっきから、この話を、じっときいていたが、ここでおかしくなって、つりこまれたように笑った。
そのとき、気がつくと、曾呂利本馬の坐っていた席が、いつの間にやら、空になっていた。
ニーナ嬢《じょう》
この雷洋丸の一等船客に、一きわ目立って、姿のうつくしい、外国人の令嬢がいた。その名をニーナ・ルイといって、国籍は、メキシコと届けられていた。
ニーナ嬢は、いつもすっきりした軽い服に、豹《ひょう》の皮のガウンを着て、食堂へ入っていったり、またAデッキの籐椅子《とういす》にもたれて、しきりに口をうごかしているのが、とくに船客の目をひいた。
ニーナ嬢は、一人旅ではなかった。伯父《おじ》さんだという師父《しふ》ターネフと、二人づれの船旅であった。
師父ターネフは、もちろん宣教師《せんきょうし》で、いつも裾《すそ》をひきずるような長い黒服を着、首にまいたカラーは、普通の人とはあべこべに、うしろで合わせていた。いかにも行いすました宗教家らしく、ただ血色《けっしょく》のいい丸顔や、分別くさくはげかかった後頭部などを見ると、たいへん元気にみえ、なんだか、その首を連隊長か旅団長ぐらいの軍服のうえにすげかえても、決しておかしくはないだろうと思われた。
そのニーナ嬢が、階段のところで、曾呂利本馬と、鉢合《はちあわ》せをした。
ニーナ嬢は、うすぐらい階段を、急いで上からおりて来る。曾呂利は、松葉杖《まつばづえ》をついて、階段を四、五段のぼっていた。ニーナ嬢が、勢よくというより、少しあわて気味に足早におりて来たため、あっという間に、二人は下にころげおちた。
からだが不自由な曾呂利は、後頭部《こうとうぶ》を床にうちつけて、しばらくは、気がとおくなっていた。
ニーナ嬢の方は、すぐさま起き上った。そして、いまいましいという表情で、たおれている曾呂利を、靴の先で蹴とばしておいて、そのまま行きすぎようとした。が、そのとき、彼女は、何おもったのか、また戻ってきて、さっきとは別人のようなふるまいで、曾呂利を抱きおこした。
「うーん」
曾呂利が、彼女の腕の中で、うなりごえをあげた。
ニーナ嬢は、ハンケチをだして、曾呂利の額《ひたい》をふいてやった。そして、
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました」
「……?」
曾呂利は、ちょっとうす目をあけたが、またすぐ目をつぶった。
「ごめんなさい。わたくし、あやまりました。おわびのため、このお金、さしあげます」
ニーナ嬢は、どこに持っていたのか、紙幣《さつ》を一枚、曾呂利の手に握らせ、
「どうか、ごめんください。そして、わたくしのため、このことは、誰にもいわない、よろしいですか。きっと、きっと、誰にもいわない。わたくしと、ここで衝突したこといわない。あなたいいません! いわないこと、約束してくれますか。それを守ってくれるなら、あとでまた、お礼のお金をさしあげます」
ニーナ嬢は、ねっしんに、そして早口で、曾呂利をかきくどいた。
曾呂利は、かすかにうなずいた。
「よろしいですね。わたくし、あなたを信用します。お礼のお金、あとできっとさしあげます。あっ!」
ニーナ嬢は、とつぜん、おどろきのこえをあげた。階段の上に、誰かのわめきごえがきこえたからである。
「約束、きっと、守るのです!」
ニーナ嬢は、最後にもう一度、命令するかのように、曾呂利の耳にのこすと、曾呂利をそこに寝かしたまま、とぶように立ち去ったのであった。
階段の上から、あらあらしい足音とともに、二、三人の船員がおりてきた。
「やっぱり、こっちじゃないかな」
「どうも、こう暗くては、探せやしない」
船員たちは、おりてくると、そこに曾呂利がたおれているのを発見して、おどろいてかけより、
「おう、あなた。ここへ誰か来なかったでしょうか。この階段を、あわてて上からおりてきたものはありませんか」
曾呂利をだき起そうともせずに、いきなり質問だ。
曾呂利は、首をふって、
「誰も、見えませんでしたね。僕は、松葉杖を階段からつきはずして、落ちたんです」
と、わりあい、しっかりしたこえでいった。曾呂利は、ニーナとの約束を守ったのである。というよりも、うそをついたのである。彼は、ニーナ嬢から握らされた紙幣に、良心を売ったのであろうか。
疑問《ぎもん》の空襲《くうしゅう》
曾呂利が、医務室につれこまれるところを、ちょうどそこを通りかかった房枝が、見かけた。
「まあ、曾呂利さん。足のわるいのに、ひとりで出かけたりするから、また、どうかしたんだわ」と、つづいて、彼女も、曾呂利のあとから、医務室に入った。
曾呂利は、診察用の肘《ひじ》かけ椅子に、腰をかけさせられていた。
船医が、すぐやってきて、曾呂利が痛みを訴《うった》える後頭部をかんたんに診察した。
「なあに、大したことはありませんよ。湿布《しっぷ》してあげましょう」
船医は、看護婦を呼んで、湿布のことを命じているとき、入口の扉をあけて、船長が入ってきた。
「やあ、ドクトル。赤石《あかいし》は、その後、どうです」
赤石とは、れいの爆発事件のとき、甲板でたおれた船員の名だ。
「やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ」
「うむ、そうすると、会って、こっちが聞きたいことを聞くわけには、いかんですかな」
「まあちょっと待ってください。もう三十分ぐらいは」
「そんなに、容体《ようたい》があぶないのかね」
「何ともわからんですよ、それは。すこし、ここに来ているらしいので、警戒しているのです」と、船医は、自分の頭を指さした。
船長は、困ったという表情で、
「じつは、本船の上を、怪しい飛行機が飛んだことについて、赤石に聞いてみないと、事実がはっきりしない点があるのでね」
「赤石君にきかないでも、外の人だけで、わからないのですかね、私も聞いたが、あれだけはっきりした爆発音だから、それでも分かりそうなものだが」
「いや、ドクトル。どうも、それだけのことじゃないらしいんでね、それで困っとる」
と、船長は、口を大きくむすんで、
「第一、空襲らしいというのに、本船の者で、誰も飛行機の近づく爆音を聞いたものがないのが、おかしい。もちろん、飛行機の姿も見えなかった」
「船長。爆弾がふってきたんだから、それでもう、飛行機の襲来だということは、たしかではありませんか」
「いや、それが、そうかんたんにきめられないのだ。それに、赤石のたおれていたとこに、ばらばらと落ちていたうつくしいきり花だが、こんなものがどうして、あんなところにあったか、これは赤石に聞かないと、わからないことなんだ」
と、船長は、手に握っていた数本のきり花を、机のうえに投げだすようにおいた。
「たったこれだけの花ぐらいのことを、そう気にすることはないでしょう」
「いや、これは、その一部なんだ。もっとたくさんある」
船長は、いよいよ苦《にが》りきって、
「もっと、困ったことがある。今しらべてみてわかったんだが、あの爆発事件の最中に、この船内から、二人の船客が、姿を消したんだ。二人ともミマツ曲馬団の人たちで、一人は団長の松ヶ谷さん、もう一人は、トラとよばれている丁野十助という曲芸師だ。船内を大捜査したが、たしかにこの二人の姿が見あたらない。それから、三等食堂の血染《ちぞめ》のテーブル・クロスの事件ね」
「ああ、あの血染事件の血液検査を、やることになっているが、こういう次第で、手が一ぱいですから、あとで、なるべく早くやります」
「とにかく、わしの直感では、この船は、横浜へ入るまでに、どうかなってしまうのじゃないかと思う。単なる空襲事件ではない。もっと何
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