ふりむいた。
「すぐ灯火管制《とうかかんせい》にうつらねばなりませんが、こうだしぬけの警報では、ちょっと時間がかかりますが、いかが?」
「ただちに、電源の主幹《しゅかん》を切って、消灯《しょうとう》だ!」
 船長は電文を見終って、はっきり命令を出した。
「えっ、主幹を切りますか」
「早くやれ!」船長のはらは、すわっていた。
 これから消灯または遮光《しゃこう》の命令を出して、おおぜいの手で、船内の方々をくらくさせていたのでは、おそくなる。ことに、海を航行している汽船は、空中から、すこぶる見えやすい。船長の考えとしては、船の安全のために一秒でも早く灯火管制をやりとげるためには、こうするのがいいと思ったのである。
 命令は、ただちに、発電室に伝えられた。
「電灯用主幹、全部開放!」
 あっという一瞬間に、船内の電灯は、全部消えてしまった。どこもかしこも、たちまち、まっくらやみだ。
 ただ機関室などの大事なところは、夜光塗料が、かすかに青白く光って、機械の運転に、やっとさしつかえのないようには、なっていた。
 食事半ばの、三等食堂などは、文字どおり、暗黒の中にしずんでしまった.
「あっ、どうした。電灯をつけろ」
「停電で、飯がたべられるか」
「電灯料の支払いが、たまっているのだろう。ざまをみやがれ」
 やひ[#「やひ」に傍点]なまぜっかえしに、一座は、たちまちどっと笑いくずれた。皿をたたく者がある。ソースのびんをひっくりかえした者がある。だれやらマッチをすったものがあるが、とたんに、ふき消されてしまった。
「ただ今、怪しい飛行機が近づきました。明りを消してください。マッチをすってはいけません」
 室内の高声器《こうせいき》から、とつぜん警戒警報が伝えられた。
「それみろ! もう、マッチをすっちゃ、いけねえぞ」だれかがさけんだ。
 そのうちに、丸窓が、がたんと閉まる音がきこえた。
「もういいか」
「一番、二番もよろしい」
「五番、六番もよろしい」船員たちは、おちついて、暗闇《くらやみ》の中に、こえをなげあっている。
「ようし。それで全部、窓は閉まった。予備灯点火《よびとうてんか》!」
「おうい」釦《ボタン》が、おされたのであろう。五つばかりの、小さい電球に明りがついた。
 人々は、はっと、よろこびのこえをあげて、一せいに、明りの方に、ふりむいた。
 そのとき、房枝も、明りをみた。そして、その次に、あのうつくしい大きい花籠を、卓子《テーブル》のうえに、さがしたのだった。
 どうしたわけか、花籠は、卓子のうえから消えていた。房枝は、おやと、思った。
 そのまま、だれも花籠のことをいいださなかったなら、房枝も、やがてきっと、その大きな花籠のことを、わすれてしまったことであろう。ところが、ひきつづいて、とんでもないさわぎが、まき起ったのだ。

   大音響《だいおんきょう》

「おう、いやだ、いやだ。これは血じゃないかな」
 とつぜん、ひとりの男が席からとびあがった。それは、同じ曲馬一団の黒川という調馬師《ちょうばし》だった。
 彼が、指をさししめす卓子《テーブル》のうえには、どうも人の血らしいものが、たくさん地図のような形に、白布《しろぬの》をそめていた。そして、なおもその附近には、手の形らしい血痕《けっこん》が、いくつも、べたべたと白布《はくふ》のうえについていた。そこは、ちょうど、あのうつくしい花籠がおいてあった前あたりであった。
「おお、これは血にちがいない。ぷーんと、あのにおいがするぜ」
「ほんとだ。だれの血だろう」どやどやと席をたって集ってきた三等船客や、船のボーイたちは、とつぜんふってわいたような怪事件の席をかこんで、くちぐちにさわぎたてた。
「どうも、へんだ」例の黒川という最初の発見者が、きょろきょろと、あたりを見廻した。
「おい、トラ十。トラ十は、どこへいった」彼は、なおもきょろきょろと、あたりを見廻したのだった。
「おい、トラ十が、どうしたんだ」仲間の一人が、黒川の肩をたたいた。
「なぜって、お前、トラ十が、急にいなくなったんだ。室内の電灯が、消えるまでは、ちゃんと、おれの横に腰をかけていたんだがなあ。どうも、へんだ」
「トラ十のことなんか、どうでも、いいじゃないか」黒川は、つよく、かぶりをふって、
「いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ」
「えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ」
 さわぎは、ますます大きくなっていった。そのさわぎをすぐ知らせたものがあったと見えて、事務長が、かけつけた。
 事務長も、黒川の話をきいて、おどろいた。そして、すぐさま、トラ十こと丁野十助のありかを、手わけして、探させたのであった。
 電灯が消えてから、まだ、ものの二十分ぐらいしかたたないのに、トラ十は、どこへいったか行方がわからなかった。
「まさかと思うんですけれどねえ。事務長さん」と、黒川は、いった。
「まさか、どうしたというんですか」
 事務長は、太った体を、黒川の方にむけた。
「つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね」
「ほう、探偵小説《たんていしょうせつ》には、よく、そんな筋のものがありますがねえ」
 と、事務長は、まじめくさって、そんなことをいった後で、
「まさか、ねえ」と、反対の意をあらわして、黒川の顔を見たのだった。
「でも」と、黒川は、なおも疑いの色を眉のあいだにうかべ、「それから、もう一つへんなことがあるんですぜ、さっき、トラ十の前にあった美しいりっぱな花籠が、どこへいったか、一しょに、卓子《テーブル》のうえから見えなくなった!」
 ほうと、おどろきのこえがまわりの人々の口から出た。黒川の指さした消えた花籠のことを、彼らも思いだしたからであろう。
 房枝も、もちろん、人垣の間から、一生けんめいに、黒川たちの話に、きき耳を立てていた。
「なんだ、ばかばかしい」と事務長は、笑いだした。
「じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、飾《かざ》るために」
「じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない」
 黒川は、ますます疑いにとじこめられつつ、恐怖の色をうかべた。
 房枝も、黒川と同じように、トラ十の身のうえに、一種の不安を感じないではいられなかった。
 彼女は、自分のすぐ横に、足のわるい曾呂利青年が、これもねっしんに、きき耳をたてているのを発見して、これに話しかけた。
「曾呂利さん。お聞きになって。トラ十が、どうかしたんじゃないんでしょうか」
「さあ」と、曾呂利は、興味ありげに、首をかしげたが、「だれか、怪しい者が、まじっているようですね。さっきも、マッチをつけたとき、すぐ、マッチを消せと、叱りつけた者がありましたよ。しかも、警戒警報だから、明りを消しなさいと、この部屋の高声器が叫ぶよりも、まだ前のことなんですからねえ。そのへんのことが、たいへん謎にみちていますねえ」
 曾呂利青年は、ふだんの無口にもにず、しっかりした口調《くちょう》でいった。
「まあ、そんなことが、あったかしら。あたし、気がつかなかったわ」
 と、房枝は、曾呂利の顔を、あらためて見直しながらいった。
 そのときであった。とつぜん、甲板《かんぱん》の方で、どーんという大きな音がして、部屋の壁が、ぴりぴりと震動した。
 いったい、それはなんの音だったろうか。
 ねらわれているこの汽船雷洋丸の中に、ついに起った怪事件の真相は?
 らんぼう者のトラ十は、どうしたのであろうか。あやしい花籠は、どこにあるか?

   闇《やみ》の甲板《かんぱん》

 とつぜん、甲板の方で、どーんという大きな音がしたものだから、船客たちは、きっと、顔色をかえた。ミマツ曲馬団の一行も、びっくり仰天《ぎょうてん》!
「あっ、あの物音はなんだ」
「今の音は、爆弾でも落ちたのかな。この船は、しずめられちまう! おい、どうしよう」
「どうしようたって、仕方がないじゃないか。そのときは、この汽船につかまってりゃ、それこそ海の底まで、ひっぱりこまれる」
「おい、じょうだんじゃないぞ。われわれは、どうすればいいんだ」
「どうにも仕方がないさ。いずれそのうち、鼻の穴と口とに海水がぱしゃぱしゃあたるようになるだろう。そのときはなるべく早く、泳ぎ出すことだねえ」
「泳げといっても、お前がいうように、そうかんたんにいくものか。ここから何百キロ先の横浜まで、泳いでわたるのはたいへんだ」
 などと、さわぎたてる。
 あやしい血痕のことについて、この三等食堂へかけつけ、取りしらべをしていた事務長は、しらべをやめて、ろうかの方へ走り去った。
「おい、お前たち、そんなくだらんことをしゃべるひまがあったら、甲板へ上って、この汽船がどうなったのか、ようすを見てこい!」
 隅《すみ》っこの席で、ゆうゆうとまだ飯をくっているカナリヤ使の老芸人鳥山が、どなった。
「ああ、そうだ。じゃあ、大冒険だが、ちょっといって、見てこよう」
「待て、おれもついていってやる」
 若い団員が二人、猿のようにすばやく、昇降階段《しょうこうかいだん》をよじのぼっていった。
 甲板の方できこえた爆音のような大きな音は、一発きりで、あとはきこえなかった。もっとつづけさまに、爆撃されるだろうと、ふるえあがった船客たちは、このとき、ようやく人心地《ひとごこち》に戻った。
「おや、爆撃は一発でおしまいで、もう怪飛行機はにげていったか」
「ちがうよ。爆弾なんか落しやしない。あの飛行機は、ただこの船の上を飛んで、われわれをおどかしていっただけだ」
 房枝も、そのころ、ようやくわれにかえったのだった。ふと気がついて、あたりを見廻すと例の謎の青年曾呂利本馬が、テーブルに頬杖《ほほづえ》ついて、こわいような顔で、なにか考えこんでいる様子であった。
 房枝は、こえをかけた。
「曾呂利さん。なにを考えこんでいるの」
 曾呂利は、はっとしたようすで、顔をあげた。かれの目は、きらりとするどく光っていた。だが、その目が房枝の目にぶつかったとたんに、ちょっとあわてる色が見えた。
(この人、ゆだんのならない人だわ)
 と、房枝は、曾呂利青年に、きついうたがいをかけないわけにはいかなかった。
「ああ、房枝さん。僕たちはとんでもない怪事件の中に、まきこまれてしまいましたよ」
 曾呂利本馬は、小声《こごえ》で、ささやくようにいった。
「とんでもない怪事件ですって、やっぱり、トラ十は殺され、美しい花籠は盗まれてしまったのですか。あの人は、ふだんから、にくまれているから、あたりまえよ」
 すると、曾呂利が、いそいで房枝のことばをとがめた。
「あたりまえだなんて、そんなことを、かるがるしく、いってはいけません。へんなうたがいが房枝さんにかかってくるかもしれません」
「でもあたし、トラ十を殺した犯人じゃないから、いいわ」
「なるほど」と、曾呂利はうなずいたが、房枝の方へ、さらにすりよって、
「房枝さん、ここに今、もう一つ、あやしいことが起っているのですが、あなたは、それに気がつきませんか」
 曾呂利は、もう一つ、あやしい事件が、すでに起っているというのだ。
「え? 飛行機のことですの」
「うむ、それもありますが、それはまた別にして、僕のいうあやしいことというのは、われわれミマツ曲馬団の中のことです」
「まあ。あたしたちの中に、まだ、あやしい事件が起っているとおっしゃるの。それは、なんですの。曾呂利さん、早くおしえてよ」

   しのばれる名探偵《めいたんてい》

 曾呂利青年は、妙なことをいいだしたものである。房枝は、この話をきいているうちに、いらいらしてきた。
「ねえ、早くおしえてよ。曾呂利さん」
 
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