爆薬の花籠
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)祖国《そこく》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今|抱《かか》えられている
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かいこ[#「かいこ」に傍点]だなの
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祖国《そこく》近《ちか》し
房枝《ふさえ》は、三等船室の丸窓《まるまど》に、顔をおしあてて、左へ左へと走りさる大波のうねりを、ぼんやりと、ながめていた。
波の背に、さっきまでは、入日の残光《ざんこう》がきらきらとうつくしくかがやいていたが、今はもう空も雲も海も、鼠色《ねずみいろ》の一色にぬりつぶされてしまった。
「ああ」
房枝は、ため息をした。つめたい丸窓のガラスが、房枝の息でぼーっと白くくもった。
なぜか、房枝は、しずかな夕暮の空を、ひとりぼっちで眺《なが》めるのがたまらなく好きだ。そしていつも心ぼそく吐息《といき》をついてしまうのである。
彼女は、両親の顔も知らない曲馬団《きょくばだん》の一少女だった。
彼女が、今|抱《かか》えられているミマツ曲馬団は主に、外国をうってまわるのが、本筋《ほんすじ》だった。一年も二年も、ときによると三年も、外国の町々を、うってまわる。そうかと思うと、急に内地へまいもどって「新帰朝《しんきちょう》」を看板に、同胞のお客さまの前に立つこともあった。こんどは少しわけがあってわずか半年ぶりの、あわただしい帰朝だった。そうでなければ、ミマツ曲馬団は、まだまだメキシコの町々を、鉦《かね》と笛とで、にぎやかにうちまわっていたことだろう。
房枝が、曲馬団の一行とともに、のりこんでいたこの雷洋丸《らいようまる》は、もうあと一日とすこしで、なつかしい祖国の港、横浜に入る予定だった。
だが、いま房枝はそんなことはどうでもよかったのだ。丸窓の外に、暮れていくものしずかな、そして大きな夕景《ゆうけい》の中に、じっと、いつまでもいつまでも、とけこんでいれば、よかったのであった。房枝にとって、それは、母のふところにだかれているような気がしてならなかった。
「あたしのお父さま、お母さま。日本へかえったら、こんどこそ、めぐりあえるでしょうね」
房枝は、唇をかすかにうごかし、小さなこえで、そういってみた。
(だめ、だめ。君の両親は、もうこの世の中に、生きてはいないのだ)
そういって、顔見知りの警官が、気の毒そうに、頭を左右にふるのが、まぼろしの中に見えた。
「まあ、やっぱり、房枝のおねがいごとは、だめなんでしょうか」
(そうとも、そうとも。もう、あきらめたまえ)
「ああ」
彼女のまぶたに、あついものが、どっとわいてきた。そして、頬《ほほ》のうえを、つつーッと走りおちた。目を、ぱしぱしとまたたくと、丸窓の外に、黒い太平洋は、あいかわらず、どっどっと左へ流れていた。房枝のわびしい魂はどうすることも出来ないなやみを包んで、いつまでも、波間にゆられつづける。
「うわーっ、腹がへった。食堂のボーイは、なにをしているんだろうな」
「三等船客だと思って、いつも、一番あとにまわすのだ。けしからん」
房枝の気持は、とつぜん、彼女のうしろに爆発した仲間の荒くれ男のことばに、うちやぶられた。
彼等は、かいこ[#「かいこ」に傍点]だなのように、まわりの壁に、上中下の三段につった寝台のうえで、ねそべっていた。ある者は、古い雑誌を、もう何べん目か、よみかえしていたし、またある者は、ひとりでトランプを切って、運命をうらなっていたりした。この船室は、十八人室で、ミマツ曲馬団の一行で、しめていた。
「おい、房公《ふさこう》!」
丸窓にしがみついて、後向きになっていた房枝が、あらあらしいこえで呼ばれた。
房枝は、そのこえをきくと、からだが、ぴりぴりとふるえた。「トラ十」という通り名でよばれて皆から恐《おそ》れられているらんぼう者の曲芸師|丁野十助《ていのじゅうすけ》だった。
「こら、房公。きこえないふりをしているな。こっちにはよくわかっているぞ。おい、食堂へいって、おれの飯《めし》をさいそくしてこい。あと五分間しか待てないぞと、きびしくいってくるんだ」
房枝も、やはり曲芸の方だった。綱わたりや、ブランコで、売りだしていたトラ十の丁野十助も、同じようなものをやって、お客のごきげんを、うかがっていたが、ちかごろ、房枝の方にお客の拍手が多くなったのをみて、いやに房枝に、ごつごつあたるようになった。
房枝は、だまって、丸窓をはなれた。そして、指さきで涙をちょっとおさえて、ばたばたと食堂の方へかけだしていった。
「ちえっ、あいつめ、十五になって、いやになまいきな女になりやがった」
と、トラ十は、房枝のあとを見送り、きたないことばを吐《は》いた。
だれかが寝台のうえから、ハーモニカをふきはじめた、調子はずれのばかにしたような、間のぬけたふき方であった。
トラ十は、目をぎろりと光らせて、その方へ、ぐっと太いくびをねじった。
「ハーモニカを、やめろ! 胃袋に、ひびが入らあ」
曾呂利青年《そろりせいねん》
房枝が、三等食堂へ、いきつくかいきつかないうちに、がらんがらんと、食事のしらせが、こっちの船室まで、きこえた。
トランプをしていた者は、トランプを毛布《もうふ》のうえにたたきつけ、古雑誌を読んでいたものは折目をつけてページをとじ、いずれも寝台からいそいでとび下り、食堂の方へ走って行った。団員の娘たちは、あとで、いたずらをされないように、編物《あみもの》の毛糸を、そっと毛布の下にかくしていくことを忘れなかった。
一番あとから、この部屋を出ていった顔の青い若者があった。彼は、すこぶる長身であったが、松葉杖《まつばづえ》をついていた。右足が、またのあたりから足首まで、板片をあて、繃帯《ほうたい》で、ぐるぐると、太くまいてあった。
「曾呂利本馬《そろりほんま》さん。手を貸してあげましょうか」
通路で、房枝が向こうから駈《か》けてきて、その足のわるい青年に、こえをかけた。曾呂利本馬という妙な名が、その青年の芸名《げいめい》だった。
「なあに、大丈夫」
と、曾呂利青年は、うなずき、
「ねえ、房ちゃん、いつもいうとおり、僕なんかにかまわないがいい」
そういって、彼は、あぶなっかしい足どりで、食堂の入口をまたいだのだった。
この気の毒な曾呂利青年を、房枝がなにかと世話をしてやると、そのたびに、トラ十が、目をむいて、口ぎたなく叱《しか》りつけた。
(おい房公。お前、手を出すな。その曾呂利本馬てえ野郎は、正式の団員じゃないぞ。メキシコのどぶ川の中で、あっぷあっぷしていた奴を、おせっかいの団長が、えりくびとって引上げてやったのさ。それからこっち、いつの間にやら、ミマツ曲馬団のすみっこで、こそこそうごめいている奴さ。とんちきな芸名までもらいやがって、歯のない牝馬《めうま》のうえにのっかったと思うと、もうあれ、あのとおり、自分の足を、ひんまげてしまった。ざまあみろというんだ。正式の団員でもない野郎の世話なんかすると、このおれさまが、だまっちゃいないぞ!)
と、今日も、朝っぱらから、トラ十は、船室で、ほえたてていた。
たしかに正式の団員ではなかったが、この気の毒な曾呂利に、房枝は、同情をよせていた。そばで、トラ十の雑言《ぞうげん》をきいている房枝の方が、腹が立って、しらずしらず顔が青くなるほどだった。
曾呂利が、一つ男らしく立って、口先だけでも、トラ十をがーんとやりかえすといいと思うのだったが、曾呂利本馬は、いつも無口で、小学一年生のように、えんりょぶかく、よわよわしい性格のように見え一度もやりかえしたことはなかった。
房枝は、ふんがいのあまり、こっそりと、本馬にいうときがあった。
(ねえ、曾呂利さん。あたしには、あんたがどうしても、弱虫に見えないの。男なら、なぜ一つ、思いきり、きびしく、いってやらないの。あんた、わざと、強いのをかくしているんじゃない?)
と、ませた口で、年上の青年をなじると、曾呂利青年は首をふって、
(いやいや、僕は、だめですよ。悪口をいわれても、仕方のない人間なんです。ほうっておいてください)と、目を伏《ふ》せていう。
(そう。ほんとうに、力なしの、弱虫なの、じゃあ、あたしが、これから加勢してあげるわ)
(いやいや、めっそうもない。房ちゃんは、僕なんかに、かまわないがいい)
そういって、曾呂利青年は、足がわるいのに、一番高い上段の寝台へのぼり、もう息をひきとりそうな老犬のように、小さくなって、寝てしまうのだった。
夕暮の空の下では、房枝は、一時、両親を恋うるセンチメンタルな可憐《かれん》な少女にかわるが、ふだんは、すさまじい世渡りにきたえられて、十五歳の少女とは見えないほど、きびきびした少女だった。
房枝は、松葉杖をついた曾呂利のあとから、三等食堂の中へ入っていった。
ひろい食堂は、電灯も明るく、食慾のさかんな三等船客が、もう一ぱい、つめかけていた。皿やナイフの音が、かしましくするだけで、だれも、むだ口をきく者がなく、一生けんめいに皿の中のものを、胃袋へつめこんでいた。
トラ十も、さかんにぱくついているので、曾呂利青年や房枝の入ってきたのも知らぬげであった。
「おい、ソースだ、ソースだ。ソースのびんがないぞ」
トラ十が、たくましいこえで、どなった。
「ソースのびんは、目の前にあるじゃないか」
ようやく、食事はだいぶん進んだらしく口をきく客もでてきた。
「目の前? うそをつけ。目の前には、ソースのびんなんかないぞ」
トラ十は、どなりかえしたが、そのとき、おやという表情で、目をみはった。ソースのびんは見えないが、彼の目の前には、うつくしい大きな花籠《はなかご》があった。何というか、色とりどりの花を、一ぱいもりあげてある。どう見ても、三等食堂には、もったいないくらいの、りっぱな花籠だった。
「ほら、ソースのびんは、その花籠のかげに、あるじゃないか」
「なるほど」
と、トラ十は、うめくようにいって、ソースのびんをとったが、彼の目は、なぜか、このりっぱな花籠のうえに、ピンづけになっていた。
警報《けいほう》
この雷洋丸の無電室は、船長以下の幹部がつめかけている船橋《せんきょう》よりも、一段上の高いところにあった。
それは、ちょうど午後七時五十分であったが、この無電室の当直《とうちょく》中の並河技士《なみかわぎし》は、おどろくべき内容をもった無電が、アンテナに引っかかったのを知って、船橋に通ずる警鈴《けいれい》を押した。
すると、間もなく、扉《ドア》があいて、一等運転士が、自身で電文をうけとりにとびこんできた。
「警報がはいったって、その電文はどれだ」
無電技士は、だまって、机の上の受信紙《じゅしんし》一枚とって、一等運転士に手渡した。
一等運転士は、紙上に走り書きされた電文を、口の中でよみくだいたが、とたんに、さっと顔色がかわった。
「おう、防空無電局からの警報だ。なんだって。国籍不明の爆撃機一機が一直線に北進中。その針路は、午後八時において、雷洋丸の針路と合う。雷洋丸は直ちに警戒せよ」
「ほう、これはたいへんだ」
一等運転士は、青くなって無電室をとび出した。もう怪飛行機は、こりごりである。メキシコを出港してからこっち、どういうわけか、この雷洋丸は三回も、怪飛行機のため夜間追跡をうけている。こんどで四度目だ。先月他の汽船が、やはり追いかけられ、一発の強力爆弾で沈められたことがある。それ以来、怪飛行機の追跡には、おそれをなしているのだ。防空無電局は「国籍不明の爆撃機」といって来ている。気味のわるいこと、おびただしい。なにしろこっちは非武装の汽船だから、どうしようもない。
「船長《せんちょう》、また怪飛行機です!」
一等運転士は船橋へかけあがる[#「かけあがる」はママ]と、大声でさけんだ。
「えっ!」
と、船橋にいあわせた幹部船員は、おどろいて、一等運転士の方を、
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