すると、修繕工はかるくうなずいた。黒眼鏡の男は、そのままそこを立ち去ったが、あとには長髪の修繕工が、いかにも体がだるそうに、ぼつぼつ自動車の修理にとりかかった。が、彼の目は自動車にそそがれるよりも、警察署の表口と裏口あたりにそそがれる方がひんぱんであった。どうしても張番《はりばん》をしているとしか見えない。
 何者であろうか、こうして、警察署に気をくばっている曲者たちは?
 そのとき署内では、大急ぎで駈けつけた田所検事を中央にかこんで、署長や司法主任や係官の刑事や巡査が、額《ひたい》をあつめて、会議の最中であった。
「そうか、昨日の午後四時か」
 と、田所検事は、近眼鏡にちょっと手をかけて、目をしばたたく。
「ええ、午後四時でしたな。トラ十へ、これをさしいれたいから頼みますと、にぎりずし[#「にぎりずし」に傍点]が一|折《おり》と、鼻紙《はながみ》一|帖《じょう》とをもってきたのです。そこへ出たのが、この間、拝命《はいめい》したばかりの若い巡査だったが、『トラ十へ』という声に気がついて、その巡査を押しのけて前へ出て応接したのが、ここにいる甲野《こうの》巡査です。甲野巡査の第六感の手柄ですよ。ははは」
「署長さん、第六感なんて、そんなものじゃないのです。そうもちあげないで下さい」
 甲野巡査が、頭をかく。
「じゃあ、これから後のことを、甲野巡査から聞こう。話したまえ」
「は、検事さん。トラ十へ差し入れ、というので、私はぎくんときました。だって、これは秘密になっていますが、トラ十は五日前に、ここの留置場を破って逃げ出して、今はここにいないんです。だからうっかりしていると、トラ十なんか、ここにはいやしないぞといいたくなる。しかしそういっては、トラ十の逃げ出したことがばれる。私は前へとび出していくと、受付の巡査に代って『よろしい、ここへおいてゆけ』といったのです。そしてすし[#「すし」に傍点]をもちこんだ当人の住所姓名をたずねると、トラ十の従弟《いとこ》で、この先のこれこれの工場に働いている者ですといって、すらすらと答えたんです。そこで私は、すしをうけとって『よろしい』というと、その男は帰っていきました」
「なるほど」
 検事はうなずいた。
「さあ、そこですし[#「すし」に傍点]の始末ですが、これには困りました。なにしろ、トラ十はここにはいないのですからねえ。もったいないが、われわれが代りに食べるというわけにもいかない。すし[#「すし」に傍点]は、机の上においたなりになっていました。がそのうちに、思いがけない事件がもちあがったのです」
「ほう、猫の一件だな」
「そうなんです。私たちが、うっかりしている間に、警察署の小使が飼っている玉ちゃんという猫が、昨今《さっこん》腹が減っていると見え、いつの間にか机の上のすしを見つけ、紙包の横を食い破ると、中のすし[#「すし」に傍点]を盗んで食っているのです。『ああ猫がすしを食べている!』と、誰かがいったときには、もう二つ三つは、玉ちゃんの腹の中に入っていたのでしょうが、皆がさわぎだして、玉ちゃんのところへ飛んでいったのですが、そのときどうしたわけか、猫は逃げもせず、そこにうずくまっているのです。そしてだらだらよだれをたらしている。『変だな』と思ったときには、猫は、とつぜん大きなしゃっくりをはじめ、それからさわぎのうちに、冷たくなって死んでしまったのです。すし[#「すし」に傍点]の中には、毒が入っていたのですなあ」
「うむ、そうらしい。毒物は検定にまわしたろうね」
「もちろん、すぐまわしました」
 とこれは署長がこたえた。
 小使さんの猫玉ちゃんが、トラ十へさし入れのすしを盗み食いをして毒死した、という事件が、ここの署員たちをたいへん驚かせ、そして、田所検事へ急報せられたというわけであった。すしを持って来た男は、もちろん玉ちゃんを殺すつもりではなく、留置所につながれているトラ十を毒殺するつもりであったらしい。いったい何者であろうか、トラ十を殺そうとたくらんだ者は? そしてまた、なにゆえにトラ十の死が、望まれているのであろうか。ミマツ曲馬団の爆破事件以来、大活動をしている田所検事の最大の興味は、実にその点にあったのである。

   裏《うら》をかく棺桶《かんおけ》

 田所検事を中心に、会議はつづけられる。
「帆村荘六から、何か連絡はなかったかね」
 検事が思い出したようにそれをいった。
「ああ、帆村君の連絡ですか。このところ、さっぱり何もいってこないのですがね」
 と署長はいって、部下の顔を見まわし、
「おい、誰か、帆村君の消息を知っている者はおらんか」
 だが、誰も、これに答える者はなかった。一体帆村荘六はどこで何をしているのであろうか。房枝をすっかり怒らせてしまい、彼のところから房枝が逃げてしまった後、彼はどこかへ姿をかくしてしまった。
「今日は、帆村君の気にしていた花の慰問隊の大会日ですから、もうそろそろどこからか、帆村君が現われなければならぬ筈《はず》ですがねえ」
「昨夜、ここで起った毒ずし[#「ずし」に傍点]事件のことを、帆村荘六に早く知らせてやりたいものだが、連絡がないのじゃ、どうにもしようがないね。ええと、時刻は今、午前八時か」
 田所検事は、時計を見ながら、しきりに帆村の出現を気にしている。
「田所さん。すると毒ずし[#「ずし」に傍点]の件の方は、大急ぎで手を入れてみますか、それとも、もうすこし形勢をみることにしますか」
 署長は、たずねた。
「そのことだよ」と、田所検事は、改まった顔で一同を見まわし、
「毒ずし[#「ずし」に傍点]事件は、よほど考えてやらないと、せっかくの大魚をにがすことになる。そこで、さっきから考えていたわけだが、ここで一つ、大芝居をうとうと思うんだが」
「大芝居?」
 検事が大芝居などといいだしたので、一座はおどろいて目をぱちくり。
「大芝居というほどのものでもないが、さっそく棺桶を一つ、署内へ持ってこさせるのだ」
「はあ、棺桶を。棺桶をどうするのですか」
 署長は、検事が何をいいだすことやらと思い、たずねかえした。
「その棺桶には、人間と同じくらいの重さのものを入れ、そのうえで、蓋《ふた》には釘をうち、封印をしてトラ十の泊っていた、あの安宿へ持っていくのだ」
「ははあ」
「つまり、トラ十は署内で死んだから、屍体《したい》を下げ渡す。だから知合の者が集まり、通夜回向《つうやえこう》をして、手篤《てあつ》く葬《ほうむ》ってやれとむりにでも、宿の主人に押しつけてしまうんだ」
「なるほど。毒ずし[#「ずし」に傍点]をトラ十が食べて死んでしまったという事実の証明をやるわけですね」
「そのとおりだ。すると、犯人の方じゃ、うまくいったと安心をし、そして、油断をするだろう。それから後のことは、いうまでもあるまい」
「なるほど、なるほど。それは名案の芝居ですなあ。しかし、その棺桶をそのまま焼場へ持っていかれては、芝居だということが分かってしまいますねえ。なにしろ、棺の中には、トラ十の身代りに、沢庵石《たくあんいし》か何かを入れておくわけですから、火葬炉《かそうろ》の中でいくら油をかけて焼いてみたところが石は焼けませんからね。あとで、うそだということがばれてしまいます」
「なあに、問題は、今夜だけしずかにお通夜をさせればいいのさ。明日になれば、トラ十の死因について、すこし疑わしいことがあるから、改めて警察署へ引取るからとか、何とかそのへんはよろしくやればいいじゃないか」
「わかりました。それなら、きっとうまくいきます。じゃあ、早速芝居にかかりましょう」
 田所検事の計略によって、ありもしないトラ十の屍体が棺の中に収められて、警察署の裏口から運び出された。そして例の安宿へ届けられたのであった。
 宿の方では大さわぎとなった。しかし警察署からの話でもあるし、持ちこまれた棺を押しかえすこともならず、とうとう筋書どおりに通夜回向をすることとなり、近所の長屋のおかみさんや老人などが、ぼつぼつ花や線香をもって集まってきた。
 すっかり、筋書どおりにうまくいった。
 このてんまつは、警察署の前で張番をしていたあやしい自動車修繕工の目にも分かりすぎるほど映り、すっかり彼を有頂天《うちょうてん》にしてしまった。彼は棺のあとに見えがくれについて、例の安宿《やすやど》へ送りこまれるところまでたしかめた。そのうえで再び署の前へとってかえし、その実、別に故障もしていない古自動車の運転台にとびのると、いそいでエンジンをかけ、走りだした。それはもちろん、このてんまつを報告するためであった。覆面の犯人たちは、まんまと一杯、田所検事の計略に、ひっかかってしまったわけだった。

   かたみの手箱《てばこ》

 その朝、房枝は、ニーナ邸で、早くから目をさました。
 傍《かたわら》のベッドでは、スミ枝がいい気持そうに寝込んでいた。まるでお伽噺《とぎばなし》にあるお姫さまのような豪華なベッドに、ふっくらと体をうずめてねむっているのであった。
 房枝は、窓ぎわへいって、カーテンをそっとあけて、下を見おろした。花壇には、今もうつくしい花が咲き乱れていた。いくらきってもつんでも絶えることのない珍しい花であった。
 つばのひろい麦わらの帽子をかぶった庭男が、しきりに花の間をくぐって、如露《じょろ》で水をやっているのが見えた。
 そういう庭男が、あっちに一人、こっちに一人、二人で水をまいていた。
 今日の花の慰問隊の集合は、午後一時ということになっていた。場所は日比谷公園であった。それから各工場へ、手わけして花の美女隊が、大行進を始めることになっていた。午前中は工場の増産能率を害するというので、このように午後の出勤と決められていたのである。
 今日の花の大慰問が終れば、これで当分一段落となる。房枝の体も、明日からはあくことになるので、さてそのあとは、どんなことをして暮そうかと、そのようなことが、はや気がかりになった。ニーナは、いつまでも、房枝の生活の面倒を見てくれるつもりかもしれないけれど、そういつまでも厄介になるわけにはいかない。
 房枝は、またベッドのところへ戻ってきて、そのうえに腰をおろした。スミ枝は、まだねむっている、すうすうと気もちよさそうないびきまでかいて。
 房枝は、手をのばして、枕許《まくらもと》においてあった手箱を手にとった。
 よせぎれ細工の手箱であった。これは、房枝の大好きな彦田博士の夫人道子から贈られたものであった。そしてミマツ曲馬団大爆破のとき、二、三百|米《メートル》先の工場の中へとびこんでいたのをこのスミ枝が取りかえしてきてくれたのであった。
 房枝は、その手箱を胸のうえに、そっと抱きしめた。
「ああ、そののち奥様にもずいぶんながくお目にかからないような気がしますわ。あたしの大好きな奥様は、おたっしゃでいらっしゃるでしょうか。このまえは、奥様のお身の上をお案じ申すあまり、『どうかもうお帰りになってくださいまし、そして、もう二度とこんなところへは、おはこびになりませんように』と、そのような失礼なことを申し上げました。お怒りになりましたかしら。お怒りになっては、房枝は悲しゅうございますわ。あたくしは、奥様とお別れするのは、どんなにかつらいことでございました。でもあたくしは、そうしなければならなかったんでございます。なぜと申しまして、あたしたちミマツ曲馬団の者は、たえず、あやしい者に狙われていました。ですから、そのそば杖《づえ》が、万一奥様のお身にあたるようなことがあれば、あたくしは、どんなにか心ぐるしいのでございます。あたくしの手足が千切《ちぎ》れることよりも、奥様の一本のお指から赤い血がふきだすことの方がよっぼど悲しいのでございます。ああ奥様、房枝は、大好きな奥様にお目にかかれなくてさびしいのでございますけれど、こうして、じっとこらえております。ただ奥様の御安泰《ごあんたい》をのみ、おいのりいたしております」
 房枝は、道子夫人の手になる手箱に、そっと頬ずりをして、
「でもここに、奥
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