様のあついお情のこもった手箱がございますので、房枝は、どんなにか、なぐさめられているのでございますわ。奥様は、手芸《しゅげい》にも御堪能《ごたんのう》なのですわねえ。ああ、おそばに毎日おいていただいて、奥様から手芸をおしえていただくことが出来たら、房枝はどんなに幸福でしょう。ああ、だめです、そんなこと。房枝がミマツ曲馬団の生き残り者である間は、どこからかおそろしい悪魔が、今にもとびかかってきそうな姿勢で、こっちをにらんでいるのです。そういう禍《わざわい》をもって、どうしてあたくしが、奥様のおそばへまいれましょう」
 房枝は、いつになく、感傷な少女になりきってなげくのであった。
「あーら、房枝さん。泣いたりして、どうしたのよう」
 ねむっていると思っていたスミ枝が、むっくり頭をあげて房枝によびかけた。
「あら、スミ枝さん。あたし、泣いてなんかいないわよ」
「あんなことをいっているわ。ああ、よくねちゃった。ここは天国みたいね」
 スミ枝は、ベッドから飛び下りた。そして部屋の隅の洗面器の前に立って、鏡に顔をうつして、あかんべえをやった。
「そうそう、房枝さん。その手箱ね。一|個所《かしょ》だけ、よせぎれの色がかわっているんだけど、あの爆発で、色がかわってしまったのかしら」
 ふしぎなことを、スミ枝がいい出した。
「あら、そんなことがあるかしら。スミ枝さん、それはどこなの」
「ちょっと、ここへ持ってきてごらんなさい」
 スミ枝は、ピンを口にくわえて、髪を解《ほど》きながらいう。
「ほーら、ここよ。ここのところだけ、色がちがうでしょう」
「ああ、ここね。これは昔の安いメリンスの古ぎれね。ほかのところのよせぎれが、ちりめん[#「ちりめん」に傍点]だの、紬《つむぎ》だの、黄八丈《きはちじょう》だののりっぱなきれで、ここだけがメリンスなのねえ。でも、これは爆発で色がかわったのではなくて、もともと、これはこんな色なのよ」
「そうかしら、でも、へんね」
「なぜ」
「でも、へんじゃないの。そこのところだけ、安っぽいメリンスのきれを使ってあるなんて、どうもへんだわよ。きれが足りなかったんだとは、思われないわ」
 スミ枝が、無遠慮に、いいはなつところを聞いていると、なるほど、へんでないこともなかった。房枝は、その色がわりの安いメリンスのきれに、じっと目をおとしていたが、
「あら」と、とつぜん叫んだ。
「なによ。房枝さん。どうしたの」
「いえ、このメリンスの模様ね、梅の花に、鶯《うぐいす》がとんでいる模様なんだけど、あたし、この模様に何だか見覚《みおぼえ》があるわ」
「あら、いやだわ」
 スミ枝が、ぷーっとふきだした。
「スミ枝さん。なぜ、おかしいの?」
「だって、梅の花に鶯の模様なんて、どこにもあるめずらしくない模様よ。それをさ、房枝さんたら、何だか見覚があるわなんて、いやにもったいをつけていうんですもの」
「ほほほほ。そうだったわねえ。梅に鶯なんて、ほんとうにめずらしくない模様だわ。ほほほほ。でも」
 つりこまれたように、房枝は高らかに笑ったが、そのあとで、やはり小首をかしげる房枝だった。
「あーら、いやな房枝さん。まだ、はっきりしないの」
「でも、あたし、この模様、たしかに見覚があるのよ。もうこのへんまで思い出しているんだけど、そのあとが出てこないのよ」
 房枝は、そういって、頸《くび》のところへ手をやった。スミ枝が栓《せん》をひねって、湯をじゃあじゃあ出しはじめた。

   地下室の密議《みつぎ》

 そこは窓のない部屋だった。
 壁のところには、配電盤や棚のようにかさねた高級受信器などの機械類が並んでいた。
 二人の外人が、電信をうけていた。
 どうやら、ここは地下室らしい。
 ことんことんと、靴音が近づいてくる。階段を下りてくる音らしい。一人ではない。二、三人であった。
 入口の扉についているベルが鳴った。
 扉がひらいた。
 電信員がふりかえるとその目の前に、ぬっと現れたのは、ターネフ大佐[#「ターネフ大佐」はママ]とニーナ嬢、それにワイコフ医師の三人づれだった。電信員は、はっと敬礼をすると、また元のように機械の方を向いて、電鍵《キイ》を叩《たた》きだした。
「ここなら、大丈夫だ、まあ、そこへ掛けろ」
 ターネフは、二人にいって、自分で、室のまんなかにある卓子《テーブル》の方へ椅子をもっていった。
 ニーナもワイコフも、てんでに椅子をはこんで腰をかけた。
「あの日本人の娘どもは、もっとおとなしくさせるわけにいかないのかい。どこの部屋でも、えんりょなしに入ってくるので、始末がわるい」
 ターネフ首領は、にがい顔だ。
「でも、あれをへたに禁止すると、かえってあの娘たちに警戒心を起させますわ。今日一日のことですから、辛抱していただかなければ」
 と、これはニーナの弁明である。
「ふん、まあ、これはいいとして、例の方は、手ぬかりないだろうな」
「ええ、準備は、もうすっかりついています。今回同時爆発をとげる工場の数は、全部で五十六ということになっています」
 ワイコフ医師は、とんでもない報告をするのであった。
「同時爆発というが、まちがいないだろうかねえ。時刻がきちんとあわないと、どじをふむからなあ」
「その点は、大丈夫です。ものの五分と、くいちがいはないはずです。すっかり試験をしてありますから、まちがいなしです」
「銅板《どうばん》を酸がおかして、穴をあけるまでの時間だけ、もつというわけじゃな」
「そうです。つまり、時計仕掛よりも、この方が場所もとらないうえに、発見される心配がないのです。銅板の厚さと酸の濃度からして、発火時刻は、今夜の九時ということになっています」
「えっ、九時か、九時は、いけないよ。午後四時に爆発させなきゃ効目がうすい」
「九時にするようにと、御命令がありましたが」
「うん、はじめはそういった。しかし九時はいけないよ。どうにかして、四時爆発ということにならないか」
「困りましたな。全部やりかえるとなると、今からやっても、もう間に合いません」
「ふん、ちょっと、ぬかったな。いや、わしも注意が足りなかったのじゃ、じゃあ、仕方がない、午後九時の爆発で我慢をするか」
「九時でも、相当きき目があると思います。つまり工場には番人だけしかおりませんから、爆発が起れば、貴重な機械は完全に壊れるうえに、火災が起っても、人手が足りないから、どんどん延焼《えんしょう》していきます」
「だがなあ、ワイコフ。午後四時の作業中に爆発をやった方がもっと効目があるぞ」
「そうですかしら。私は反対のように、考えますが」
「お前は、あたまがまだよくないぞ。いいか、作業中にやれば、五十六箇所の工場の機械が壊れるうえに、そのそばにいた何千人何万人という熟練職工がやられてしまうじゃないか。機械と職工とこの両方をやっつけてしまえば、ここで日本の生産力というものはどんと落ちる。機械と職工との両方を狙うのが、うまいやり方なんだ、どうだ、これでわかったろう」
「なるほど、一石二鳥という、あれですね」
「機械だけで、いいじゃありませんか。職工まで殺すなんて、ちと野蛮ね」
 ニーナが口をはさんだ。
「野蛮もなにもない。あたりまえだ。機械はすぐにも他の国から入れて、いくぶんは補充がつく。しかし腕のいい技師や職工は、そんなわけにいかない。だから両方やっつけるのが一番いいのだ」
 ターネフはひとりで悦《えつ》に入っている。実におそろしい破壊計画であった。こういう計画をたてる世界|骸骨化《がいこつか》クラブの大司令は、鬼か魔か。
「それから、例の極東薬品工業株式会社の爆発は、念入りにやってくれよ。彦田博士も一緒にやっつけてしまわねばならないが、博士はこの頃いつも工場に泊っているそうだから、多分うまくいくだろう。あの優秀な博士は、どうしても生かしておくことは出来ない」
 ターネフのいうことは、どこからどこまでも、日本にとって一大事のことばかりであった。いや、日本だけではない。東洋、いや全世界の文明力を破壊し、世界人類の幸福をぶちこわすおそろしい陰謀なんだ。この陰謀の巣の地下室は、どこにあるのかと思うと、これが意外にも意外、例のうつくしい花壇の真下にあるのであった。
 時間の歩《あゆ》みのおそろしさよ。
 未曾有《みぞう》の大事件は、刻々《こくこく》近づきつつある。
 帆村探偵は、どこにいるのか。トラ十はどこへ逃げたのか。
 ここに、ただ一つふしぎなるは、例の美しき花園に水を撒《ま》く庭番が、いつになく帽子を深々とかぶり、そしていつになく忠実に花の間にうずまって、仕事に精を出していることであった。

   夫人のなげき

 花の慰問隊は、一せいに日比谷公園から、進行を開始した。ターネフ首領邸《しゅりょうてい》から、ここへ運ばれてきてあった数千のうつくしい花束と花籠とは、少女たちの胸に抱かれ、飾りたてられたトラックの上にのせられ、そこから全市の各工場地帯に向かって出発したのであった。房枝の組は、城南方面であった。
 この方面には、十台のトラックがつづいた。どの工場でも、工員たちから、ものすごい歓迎をうけた。
「まあ、きれいな花籠だこと」
「こんなに沢山もらっていいんですか。これはどうも、すみませんですなあ」
「いいえ。皆さんの御奮闘《ごふんとう》に対して、ほんのわずかの贈物なんですの。それを、たいへん喜んでいただいて、あたくしたち花の慰問隊一同、こんなうれしいことはございませんわ」
 こんな会話のやりとりが、どこへいっても、工員たちと房枝たちとの間にとりかわされた。美少女たちの頬は、トラックの上で、すっかり紅潮して、花にもましてうつくしく見えた。
 彦田博士の極東薬品株式会社の前でも、この花と少女のトラックは止まった。そして、一番見ごとな花籠が贈られた。
 社長の彦田博士は現れなかったが、副社長以下の幹部が、門前に総出となって、花の慰問隊を出迎えた。
 房枝たちが、その花籠を贈呈《ぞうてい》している途中で、会社の玄関から、一人の上品な夫人が現れた。その夫人こそ、彦田博士の夫人道子であったが、夫人は、目のさめるような大花籠にしばらく気をうばわれ、たたずんでいるうちに、さっと驚きの色が浮かんだ。それは、思いがけない房枝の姿を見つけたからであった。
「まあ、あなたは房枝さんでしょう。まあまあ、房枝さんでしたわね。よくきてくだすったのね。こんなところでお目にかかれるなんて」
 夫人は、房枝のそばへ駈けよって、うれしさのあまり、ついに声が出なくなったほどであった。
「奥様は、どうして、こんなところに」
 挨拶がすんでから、房枝が、ふしぎそうにたずねた。
「ああ、そのことですの。実は、この工場は、私の主人が建てて、社長をしていますのよ」
「御主人?」
「そうですの。彦田と申します」
「あ、彦田博士! まあ、そうでしたか。すると奥様は、彦田博士の御夫人でいらっしゃつたのですねえ。まあ、目と鼻にいましたのに、すこしも気がつきませんでしたわ。こんないい工場、そしてあんなにりっぱな御主人! 奥様は日本一御幸福ですわねえ」
「そうでもありませんわ、第一、私たち二人きりで子供がありませんもの。こんな不幸なことはありませんわ。まあとにかく、皆さんこっちへお入りになって、しばらく、休んでいってくださいまし。お茶の用意をしてございますから」
 道子夫人は、そういって、房枝たちを工場の応接室へ案内した。そこには、心づくしのお菓子と茶が並べられてあった。
 房枝は、その厚意に感激しながら、夫人のそばで茶を御馳走になった。
「房枝さん。いつも私が、お話したいと思いますが[#「いつも私が、お話したいと思いますが」はママ]、むかし、主人との間には、一人のかわいい女の子がいましたのよ」
「そのようなお話を伺いました。で、そのお嬢さまは、どうなすったのでございます」
「おはずかしい身の上ばなしになりますが、その当時、研究狂といわれた主人と私はその日の食べものにも困り、そのうえ私が病気になってしまい、一家はどん底の暗黒にお
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