あなたがたが、房枝さんたちを助けて、邸に戻られてからのちのことをいっているのですが」
「ああ、師父ターネフですか。ターネフは、どこへも出ません。ゆうべは、ずっと邸にいました」
「あらっ、そうかしら」
房枝は、ニーナのことばに誤《あやま》りがあるように思った。けさがたターネフを見かけたが、ターネフは疲れたような顔をしており、どこを歩いたのか、靴は泥だらけであったようにおぼえている。
「房枝さんは、師父ターネフが邸にいなかったことを知っているようだな」
「いえ、そんなこと絶対にありません。ターネフは、ずっと邸にいました」
ニーナは房枝に代って、ターネフが邸にいたといいはった。
部長が、なにかいおうとしたが、そのとき帆村が、それと目くばせをしたので、部長はなにもいわなかった。
「じゃあ房枝さんも、ニーナさんもとにかく一度向こうへいって、捜査本部の方の質問に、こたえられたらいいでしょう」
帆村は、別れのあいさつのかわりにそういった。
「あら、帆村さん。あたしを助けてはくださらないのですか」
房枝は、不服《ふふく》そうにいった。
「いや助ける助けないも、警官のいうところに従われたがいいでしょう。なにしろ、東京のまん中に原因不明の爆破事件が起るなんて、物騒《ぶっそう》なことですからね。当局はこういう方面のことについては、たいへん警戒をしているのです。知っていることはなんでも正直に話されたがいいでしょう」
帆村探偵のことばは、房枝にとって、なんだか冷《ひや》やかに聞こえた。
「房枝さん、元気をお出しなさい」
とニーナが、かえって房枝をなぐさめた。
「ええ、ありがとう」
ニーナは、房枝の肩に手をかけて、
「房枝さん。警官たちは、あなたを不必要にくるしめています」
「な、なにをいう」
若い警官が、ニーナを叱りつけた。それは、始めに彼女たちをとりおさえた若い警官だった。
「あたくし、いいます」と、ニーナは、胸をはっていった。
「この爆破事件の容疑者は、すでにあなたの手に捕《と》らえられているではありませんか。そのうえに、房枝さんをうたがうのはいけません」
ニーナは、妙なことをいいだした。
「なにッ!」
「あたくし、よく知っています。トラ十というあやしい東洋人が、あなたがたの手に捕らえられたはずです」
「えっ、それを知っているのか。どうして」
「そのあやしい東洋人トラ十は、ミマツ曲馬団の爆破が起って間もなく、三丁目の交番を走りぬけるところを、警官にとらえられましたのです」
おどろいた。全くおどろいた。警官たちも、帆村もニーナのことばには、おどろいてしまった。
「ニーナさん。あなたは、なぜそんなことを御存じなんですか。どこから知ったか、こたえてもらいましょう」
「ほほほほ。あたくし、公使館の人から聞きました。日本中のこと、なんでも、すぐわかります」
「えっ、公使館の人? とにかく、向こうへいって、もっとくわしく聞きましょう。さあニーナさんも、向こうへ歩いてください」
「いやです」
ニーナは、首をつよくふった。
「あたくしは、もうかえります」
「いや、かえることはなりません」
「いいえ、あたくし、あなたのような警官に自由をしばられるような、わるいこと、しません。あなた、たいへん無礼です。そんなことをすると、わが公使館は、だまっていません。むずかしい国際問題になります。それでもよろしいですか」
「うむ」
「ほほほ、あたくし、邸にいます。逃げかくれしません。話あれば、公使館を通じて、お話なさい。ほほほほ」
ニーナは、勝ちほこったように、警官たちの顔を見おろした。ニーナをおさえようとすればおさえられるが、こんな小さいことで、国際問題を起しては申訳ないと、このうえニーナをとめることを断念した。
だが、後日になって、メキシコ公使館へ連絡をしたところ、公使館では、ターネフやニーナはメキシコ人ではないから、公使館では、彼らのことで責任はおわないと明言した。が、そのときはもう、あとの祭だった。
それはさておき、ニーナは、にんまりと嘲笑《ちょうしょう》をうかべたのち、こんどは房枝の手をとって、
「ねえ房枝さん。曲馬団だめになっても、あたくし、あなたを保護します。あたくしの邸へおいでなさい。そのうちお迎えにきます」といった。
「はあ、ありがとうございます」
房枝は、ほんとうに、感謝しているらしい。ゆうべからのニーナの親切が身にしみているからそういったのだろうが、それでいいのか。
そばで、帆村は、唇をかみながら、もくもくとして、ふかい考えにおちている。
仮面《かめん》を取れば
うつくしいニーナ嬢は、ワイコフ医師の操縦する自動車にのって、邸へもどった。
玄関をはいって、大広間でガウンをぬいでいると、階段の上から師父ターネフが、いそいで下りてきた。
「おおニーナ。いまごろまで、なにをぐずぐずしていたんだ。下手《へた》なことをやったんじゃないかと、わしは気が気じゃなかったぞ」
ターネフは、いつになく、落着をうしなっていた。
「だって、あなたから命じられた、偵察任務をおえるまでは、現場を引あげるわけにはいかないではありませんか」
偵察任務と、ニーナはいった。房枝は、ニーナが、親切にも自動車で、現場までおくってくれたのだと思っていたが、そうばかりでもなく、ニーナは、偵察にいったのだという。
「ニーナ、二階へ来い」
ターネフは、そういって、また階段をそそくさと、上へあがっていった。ニーナは、ワイコフ医師にガウンをなげつけるようにして、師父のあとを追った。
二階に、ターネフの占領している広い部屋があった。南向きの窓からは、例の花畠が一目で見おろせる。
ターネフは、安楽椅子《あんらくいす》に、どっかと身をなげかけた。その前に小さいテーブルがあって、酒の壜《びん》と盃《さかずき》とソーダ水の筒とがのっている。ターネフは、およそ師父らしくない態度で、足をくみ、そして、酒のはいったコップをとりあげると、ぐーっとあおった。
「おい、ニーナ。お前は、もっと、用心ぶかく、そしてもっと、すばしこくやってくれないと困るよ。こっちの正体を、相手にかぎつかせるようでは、役に立たない」
ターネフは、きゅうくつな師父ターネフの仮面をかなぐりすてて、ターネフ首領をむきだしにしている。前にトラ十がずばりと指したように、ターネフは世界|骸骨化本部《がいこつかほんぶ》から特派された極東首領であり、ニーナは、その姪《めい》でもなんでもなく、彼の部下の一人であったのである。
「バラオバラコの名で、房枝と黒川とを、うまく丸ノ内へつれだす計画だって、お前の不注意のため、トラ十にかぎつけられたんだ。そして、あべこべに、われら二人が、トラ十のために逆襲され、ぐるぐるまきにされて、自動車の中へとじこめられたときには、わしは腹が立って、気が変になりそうだった」
ターネフは、さかんにこぼすのだった。この話によってみると、バラオバラコは、ターネフとニーナのことであることがわかる。そして又、トラ十がとつぜん房枝たちを襲《おそ》ったわけもわかる。
ニーナは唇をかんでいたが、このとき急に顔をあげ、
「あたくしばかりお責めになっては、不服ですわ。あなただって、ずいぶんまずいことをなさいましたわ」
「そうでもない」
「だって、そうですわ。けさ、現場からこの邸へおかえりになったところを、房枝に見つけられたことに気がついていらっしゃいませんの。現場で房枝を訊問《じんもん》した帆村探偵は、それをちゃんと悟ってしまったようですわ」
「えっ、そんなことがあるものか。探偵は、わしが、爆発事件の犯人だといったのかね」
「そこまで、はっきりいいませんが、部長の警官が『ターネフはあやしい、よくしらべなければ』といおうとするのを、あの探偵は、すばやくとめたんです。あなたにゆだんをさせておいたところを、ぴったりとおさえるつもりだと、あたしにらんだのですけれど。あなたは現場で、なにかまずいことをおやりになったのではないのですか」
「うむ」
と、ターネフは、眉《まゆ》を八字によせ、
「じつは、ちょっとまずいことをやってきたんだ」
「ああ、やっぱり、そうなのね」
「それを、ごまかそうと、いろいろやっているうちに、時間をとってしまったんだ。だが、まず警官たちに気づかれることはないと思うが」
「思うが、どうしたんですか」
「うむ、万一、気がつかれたら、わしは日本の警察官に対し、あらためて敬意を表するよ。とにかく、トラ十をあそこへひっぱり出したところまでは、実にうまく筋書どおりにいったんだがなあ」
そういって、ターネフ首領は、いまいましそうに舌打をした。
「万一、ここで分かってしまったら、かんじんの大仕事が出来なくなるではありませんか」
「ああ、そのこと、そのこと。じゃあ仕方がない。もう猶予《ゆうよ》はできないから、わしは荒療治《あらりょうじ》をやることにしよう。お前はわしとは別に、房枝をうまく丸めて、例の計画をすすめるのだ」
「ええ、あの子のことなら大丈夫、ワイコフさんも、手を貸してくれることになっていますわ」
ターネフ首領、ニーナ嬢との密談は、近くなにか更に大事件をおこそうとしていることがうかがわれる。彼らは、いったい何をねらっているのであろうか。どんな陰謀を考えているのであろうか。しかもその日は遠くないようだ。気にかかる!
いまわしい疑《うたが》い
ニーナは現場から大手をふって、かえっていったが、房枝の方は、そこにとめておかれて、捜査本部の取りしらべをうけた。
帆村探偵も、そばにいて、房枝の答えることをじっときいている。
「ニーナさんは、親切な方ですわ。あの方をあやしむのはまちがいだと思います」
房枝は、どこまでも、ニーナを弁護しているのだった。
「じゃあニーナのことは、それくらいにして、トラ十こと丁野十助のことだが、あいつは、ミマツ曲馬団へも一度雇われたいとたのんで来たのではなかったかね」
若い検事が、きびきびと質問をする。
房枝は、かぶりをふって、
「いいえ、そんなことを聞いたことはございませんわ。トラ十さんは、雷洋丸《らいようまる》にのっているとき会ったきりで、こんど内地へかえってきてからは、丸ノ内のくらやみで会うまでは、まだ一度も会ったことがございません」
「ふーん。それは本当かね。まちがいないかね。トラ十は、ミマツ曲馬団《きょくばだん》へもう一度雇われたいと思って、いくどもたずねていったといっている。そのために、トラ十は、郊外のある安宿に、もう一週間もとまっているといっているぞ。本当に、トラ十が曲馬団をたずねていったことはないか」
「さあ、ほかの方ならどうか存じませんけれど、あたしにはおぼえがございません」
「それなら、もう一つたずねるが、トラ十以外の者で、誰かこのミマツ曲馬団に対して恨《うらみ》を抱いていた者はないか」
「あのう、バラオバラコの脅迫状のことがありますけれど」
「バラオバラコのことは、別にしておいてよろしい。そのほかにないか」
「ございません。ミマツ曲馬団は、皆さんにたいへん喜ばれていましたし、団員も、収入がふえましたので、大喜びでございました。ですから、ほかに恨をうけるような先は、ございませんと存じます」
「そうか。取りしらべはそのくらいにしておきましょう」
検事は、そういって、警官たちと、ひそひそとうちあわせを始めた。
「どうだ。もうこのくらいでいいだろう。トラ十をもっとしらべあげることにしよう」
「それがいいですね。そして、山下巡査が見つけた沼地についた大きな足あとが、トラ十の足あとであるという証明がつけばいいんですがねえ。あそこのところが合うように持ってきたいものですなあ」
「まあ、そのことは、後にするがいい」
と検事は、おしとめて、こんどは帆村の方に向き、
「おい帆村君。君は何かこの娘に聞きたいことはないか。許すから何でも聞いておきたまえ」
「はあ、それでは、ちょっと」
と、さっきから黙っていた帆村が、房枝の方へ向き直った。房枝
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