目の前にひらけた一面のバラの園《その》に、気をうばわれた。
ところがニーナは、そのすばらしいバラの園を、なぜか自慢しなかった。そして、房枝の腕をとると、前へ押しやるようにして、そのところを通りぬけた。
房枝は、ニーナの心を、はかりかねた。
「ニーナさんは、バラの花が、おきらい」
「えっ」
と、ニーナは、妙《みょう》に口ごもり、そしてあわてて首をふった。
「わたくし、きらいではありませんけれど、好きでもありません」
と、わけのわからないことをいった。
そのとき、房枝のあたまに、ふと浮かんだことがあった。それは何であったろうか。
外でもない。バラオバラコという怪しい名前のことだ、あの脅迫状に託《たく》してあった。
朝刊におどろく
バラオバラコ?
これを、房枝は、こじつけかもしれないが、次のように、あたまの中で書きなおしてみた。
バラ雄《オ》バラ子!
そしてこのニーナの邸には、すばらしいバラの花園があるのだった。しかもニーナは、そこを通るとき、いやな顔をした。すると何だか、バラ雄バラ子というのが、わけがありそうにもおもわれないこともない。
(でも、まさか、あたしたちは、あの脅迫状を書いた人のとこへ来ているのではないでしょうに。あのとき、ネオン・ビルで、あたしたちを待ちかまえていたのは、トラ十だったんですもの。だとすると、バラオバラコというのは、トラ十の変名だということになるけれども……)
妙なことから、房枝はきゅうに里ごころがついた。
「あのう、ニーナさん。しばらく黒川さんのことを、おねがいしますわ」
「ええ、いいです。しかし、どうかしましたか」
「いいえ、べつにどうもしませんけれど、あたし、ちょっと曲馬団へかえってきますわ。ゆうべから、団長とあたしが団の方へかえってこないので、皆が心配しているでしょうから」
「ああ、そうですか。あのう、それ、もっとあとになさいませ。食事の用意できたころです。一しょに食事して、それからになさい」
「でも、皆が心配しているといけませんから」
「まあ、待ってください。とにかく、食堂へいってみましょう。あたくし、十分ごちそう、用意させました。メキシコから来たよいバタあります。チーズ、おいしいです」
ニーナは、しきりに房枝をとめるのだった。
房枝は、それまで黒川の重傷を心配するあまり、曲馬団の仲間のことを、すっかり忘れていたが、さぞ今ごろは、彼らはさわぎだして、警察へいったりしていることだろう。警察へいっても、房枝たちのいどころがわかるわけがない。房枝は、すぐにかえる決心をした。
ニーナは、屋内《おくない》へいそぐ房枝の腕をかかえて、しきりに朝食をとっていけとすすめる。
広間へ房枝が上ったとき、彼女は、
「あらっ」
といった。それは[#「それは」は底本では「それに」]、師父ターネフが、彼女を見ると、あわてて奥へ姿を消したからであった。そのときのターネフは、一向牧師らしからぬ服装をしていたからであるかもしれない。ニッカーをはいていて、まるでゴルフにでもいくような姿だった。靴は、泥にまみれていたようにも思われる。それにしても、まさかあわてて奥へ逃げこむこともなかろうものを。
ニーナは、房枝をむりやりに食堂へひっぱっていった。その食堂には[#「その食堂には」はママ]、映画でよく見るのと同じく、華麗ですがすがしい広間で、芝居の舞台に使うような椅子や卓子《テーブル》がならんでいた。
房枝は、むりやりに、一つの椅子に腰をかけさせられてしまった。
ニーナは、ちょっとといって、いったんかけた席を立って奥へひっこんだが、間もなく急ぎ足で現れた。手には、日本の新聞を手にしている。
「おお房枝さん。あたくし、あなたの帰るのをとめて、いいことをしました」
「え。まあ、どうして」
房枝は、ニーナにそういわれてひどく胸さわぎがした。
「この新聞、ごらんください。たいへんです」
「えっ、たいへんとは、どうしたんでしょう」
房枝は、ニーナの手にした新聞を、おそるおそるのぞきこんだ。
「この記事、ごらんなさい。けさミマツ曲馬団、火災をおこして焼けてしまいました」
「まあ」
房枝は、夢を見ているのではないかと、あやしんだ。
だが、手にとった新聞には、まちがいなくミマツ曲馬団が今暁《こんぎょう》二時、一大音響とともに火を出して、すっかり焼けてしまったことと、そして団員と思われる二十数名の犠牲者が、その焼跡から発見されたことが、写真まではいって報道されているのであった。
「な、なんということでしょう」
その写真には、炎々《えんえん》たる焔《ほのお》に包まれた、ミマツ曲馬団の天幕《テント》がうつっていた。夢ではないのだ。なんという不運なミマツ曲馬団であろうか。一体、この火事の原因は何であろうか。
新聞記事には“原因は目下取調中であるが、ガソリン樽《たる》が引火爆発したのではないかとの説もある”[#「説もある”」は底本では「説もある。」]
(ガソリンの樽――そんなものはない。ガソリン樽の引火なんて、そんなことはうそだ!)
と、房枝は、はやくも、記事のあてにならないことを見やぶった。
では、一体どうしたのであろうか。
爆発するものなんか、おいてなかったはずである。しかも団員が、それがために二十数名も死んでしまうなんて、そんなひどい爆発力をもったものはないはず。
(だが、ひょっとしたら、あれではないかしら)
房枝の胸は、それを考えついたとき、まるで早鐘《はやがね》のように鳴りだした。
ああ、あの花籠だ! あれこそ爆薬入りの花籠ではなかったか? おそろしかった雷洋丸事件の当時のことが、今更にありありと思いだされた。房枝は、そばにニーナ嬢が立っていることも忘れて、
「ああ、きっとあれだ!」と、こぶしを握って叫んだ。
ああ、惨事《さんじ》の後《あと》
房枝は、ニーナたちのとめるのをふりきって邸を出た。それは一刻もはやく、城南《じょうなん》の惨事のあとへいって、団員たちの様子を見たいためだった。
房枝が、停留場の方へかけだしていくあとから、ニーナが追ってきた。
「もしもし房枝さん。あたくし、あなたを自動車で送ってさしあげます。自動車で、スピードを出すのが一等早く、向こうへつきます」
それから、二十数分後に、城南の曲馬団の惨事のある附近まできた。
「ニーナ嬢、すぐかえりますか」
と、自動車を運転してきたワイコフ医師がいった。
「いいえ、もうすこし、ここにいます。あたくし、房枝さんのこと、心配です」
「では、ここに自動車をおいておくのはまずいから、例のホテルへ車をまわしておきますよ」
ワイコフ医師は、そういって、急いで、車をまわして立ち去った。
房枝は、惨事の小屋跡へかけよった。
「こらこら、はいっちゃいかん」
警官が、房枝の前に、立ちふさがった。
ニーナが、房枝をかばうようにうしろから抱きとめた。
しかし警官の肩越しに、惨事の跡がよく見えた。一夜のうちに、こうもかわるものであろうか。目をおおいたい惨状であった。天幕の柱が燃えおちて、ひどく傾いている。天幕の燃えのこりが、泥にそまって、地上に散らばっている。火事は全焼とまではいかず、八割ぐらいの火災で、二割がたは焼けのこっていた。だが焼けのこっているものも、どれ一つ満足なものはなかったのである。
「だって、あたし、ミマツ曲馬団のものなんですのよ。ゆうべ、団長の黒川さんが、丸ノ内で負傷したので、それを介抱《かいほう》して、ここにはいなかったんですの。新聞をよんで、いそいで様子を見に戻ってきたんですわ」
房枝は、けんめいになって、事情を説明した。
「なんだって、ミマツの団員で、ゆうべ、ここにいなかったというのか。おお、それは逃がさんぞ」
警官は、房枝の手を、しっかりつかまえた。
「お前の名は、なんというのか」
「房枝ですわ」
「房枝? そしてこっちの西洋人は?」
「あたくし、ミマツ曲馬団に関係ありません。房枝さんを車にのせて、ここまでとどけたのです」
ニーナが、こたえた。
「いいわけはあとにして下さい。だれであっても、一応しらべなければ、ゆるせません」
警官が手をあげたので、附近にいた警官たちが、応援のため、ばらばらとかけつけてきた。そして房枝とニーナとは、いやおうなしに、捕りおさえられてしまった。
「こっちへきなさい」
ニーナは、怒るかと思いのほか、あんがい平気であった。そして、惨事の現場《げんじょう》を、めずらしげにしきりに眺めていた。
房枝の方は、そんなに落ちついていられなかった。散らばった幟《のぼり》の破片《はへん》、まだぷすぷすといぶっている木材、なにを見ても胸がせまる。生きのこった団員は、どこにいるのであろうか。その姿が見えない。そしてこの惨事のほんとうの原因は何であったのか。
二人は、警官のため、前後をまもられて、その場を引立てられていったが、そのとき、ばたばたと駈けてきた男があった。
「おお、房枝さんですね。いつ、ここへかえってきたのですか」
そういった男は、外ならぬ帆村であった。
「ああ帆村さん。あたし、今ここについたところよ。皆さんのことが心配になって、焼跡へいってみようと思ったら、この警官の方におしもどされたのよ」
警官は、帆村の顔と房枝の顔とを見くらべて、
「おや、帆村さん。この女を知っているのですか」
「知っていますとも、これはこのミマツ曲馬団の花形で、房枝さんという模範少女ですよ」
「ほ、やっぱりほんとうでしたか。私は、こいつはあやしい奴《やつ》だと思いましてね。しかし、団員とあれば、他の団員も全部、警察におさえてあるのですから、やっぱりこの女、房枝といいましたかな、この房枝嬢も、連れていかなければなりません」
帆村は、うなずき、房枝の方を向いて、
「房枝さん、このミマツ曲馬団の火事には、いろいろうたがいがあるのです。火事を出したということよりも、火事のまえに起った爆発のことが、問題になっているのです。あなたも知っていることを、みんな警官に話してくださいよ」
と、注意を与えた。
「そうだ、帆村君のいうとおりだ」
部長の服をきた警官は、大きくうなずいて、
「房枝さん、あなたは、きっと知っているだろう。新聞には、ガソリンの樽がどうとかしたと書いてあるが、われわれは、そんなことを信じていない。どんな爆発物があったか、それを話してください」
帆村が来てくれたので、房枝に対する警官の態度は、にわかにていねいとなった。
房枝は、あの花籠のことを、いおうかどうしようかと思い、何の気なしに、ニーナの方をふりかえった。すると、さっきから房枝を見つめていたニーナは、なぜかあわてて目をそらした。
ひどい逆《さか》ねじ
「さあ、よくは存じませんが、あたしたちの曲馬団を爆破するかもしれないぞ、という脅迫状がきていたのです」
房枝は、ありのままをいった。そしてバラオバラコという名前のあった、その脅迫状のことをいった。
「その手紙を今持っていますか」
「いいえ、持っていません」
「どこにあるのですか。ぜひ見たいものだが。ねえ、部長さん」
と、帆村は、警官をふりかえった。
「そうだ、手紙を見れば、また手がかりもあるはずだ。その手紙はどうしたのですか」
「黒川団長が持っているはずです。団長さんは、ゆうべ重傷を負い、いまニーナさんのお邸でやすませていただいているのですわ」
「えっ、ニーナさんの邸?」
帆村は、そういって、ニーナの顔を仰いだ。
「そうです。あたくし、房枝さんと黒川さんとを助けました。ゆうべからけさまで、あたくし、いろいろ介抱しました。黒川さん、だいぶん元気づきましたが、まだうごかすことなりません」
「ほう、すると、ニーナさんは、ゆうべ黒川氏を助けてからのちは、一歩も外に出なかったのですか」
「そのとおりです。なぜ、そんなことを、たずねますか」
「いや、ちょっとうかがってみたのです。では、師父のターネフさんは、やはり邸にずっといられましたか。もちろん、ゆうべ、
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