のらしかった。
 どのくらいたったかしらないが、房枝が、気がついたときには、思いがけなく前に一台の自動車がとまっていた。
「おお、お嬢さん。しんぱいいりません」
 このとき、ひじょうに香《かおり》の高い香水が、房枝の鼻をぷーんとついた。それは房枝を、抱《かか》えおこしている婦人の服から匂ってくるものであった。その婦人は日本人ではない。
「ありがとうございます」
 房枝は、礼をいった。
「今、自動車でお送りします。かならず、しんぱいいりません」
 そういうと婦人は、英語で、べらべらと喋《しゃべ》りだした。
「よろしい。僕一人で大丈夫だ」
 大きなからだの外人の男が、房枝をかるがると抱いて、車内にうつした。
 車内は、りっぱであった。これはたいへんな高級車だ。座席には、すでに黒川がのっていて頭をうしろにもたせかけていた。よく見ると、黒川の頭は、ハンケチで結《ゆ》わえてあり、その一部には、赤い血がにじみだしていた。
「あっ、黒川さん。けがをしたのね。しっかりしてよ、ねえ黒川さん」
 房枝は、黒川をゆりうごかした。
 すると黒川は、ちょっと、からだをうごかし、苦しそうに眉《まゆ》をよせたが、
「房枝、早く下りよう」
 と、うわごとのようにいった。
「え、下りるの」
 房枝が、黒川のことばをあやしんで、といかえしているとき、座席に、例の外人の婦人が入ってきて扉をしめた。それから、大きなからだの男の外人は、運転台にのって、扉をばたんとしめると、エンジンをかけた。
「おい、房枝。早く下してくれ」
「まあ、あなた、興奮してはいけません。しずかになさい」
 房枝が、なにかいおうとしたが、その前に婦人がひきとって、黒川をなだめた。
 この二人の外人は、だれであろうか。ふしぎともふしぎ、運転台にいるのは、背広姿になってはいるが、雷洋丸にいたときは牧師《ぼくし》の服に身をかためていた師父《しふ》ターネフであった。
 それから若い婦人は、これも雷洋丸にのっていたターネフ師父の姪《めい》だといわれるニーナであった。
 だが、このときは、怪我をしている黒川は、そんなことはしらないし、それから、二人を雷洋丸の上ではしっていた房枝も、まさかこんなところで二人にめぐりあおうとは思っていなかったので、ただもう黒川団長の容態《ようたい》ばかりを気にしていて、二人がだれであるか、気がつかなかった。
 師父ターネフの運転する自動車は、ビル街へ、さっと明るいヘッド・ライトをなげながら走りだした。
 車が走りだすと、とたんに房枝は、帆村探偵とトラ十のことを思いだした。
 あの二人は、どうしたろう。まだ、そのへんで、組んずほぐれつの大格闘をしているのではなかろうか。
 房枝は、座席から腰をうかせて、走り行くヘッド・ライトの光を追った。もしやその光の中に帆村とトラ十の姿が入ってきはしまいかと思ったので。
 ところが、それからしばらくいったところで、師父ターネフは、ハンドルを切って、あるビルの角を右へ曲ろうとした。
「あっ、あぶない」
 ターネフは、思わずおどろきのこえを発して、ハンドルを急に逆に切った。車体は、地震のようにゆれ、そしてもうすこしで、左がわのビルにぶつかりそうになった。が、そこでターネフは、またハンドルを右に切りかえたので、車は歩道の上へのりあげたものの、がたと一ゆれしてうまく、道路の上にもどることが出来た。
 房枝は、そのさわぎをよそに、今しも車輪にかけられそうになった格闘中の二人の男に、全身の注意力を送った。
 道のまんなかで、組打をやっているのは、たしかに帆村とトラ十だった。トラ十の顔がぱっと、こっちを向いたことをおぼえている。トラ十はそのとき、ひじょうに驚いた顔つきになって、なにごとかわめいた。だが、何といってわめいたのやら、房枝には、もちろん聞えなかった。
「あっ、あいつ等だ。あいつ等、うごけないはずだ。ど、どうして」
 と、そのときトラ十は叫んだのであった。そのとき、下に組しかれていた帆村が、えいと気合もろとも、トラ十のからだをはねのけた。房枝はそこまでは、はっきりと見た。自動車が走りさると、道路の上は、まっくらになってしまって、その後、二人の勝敗がどうなったか、ざんねんながら、房枝はしることができなかった。

   ターネフ邸《てい》にて

 自動車がついたのは、一軒のりっぱな洋館であった。その間も黒川は、なにかさかんにわめいていたが、舌がもつれていて、何をいっているのかさっぱりわけがわからなかった。
 なにしろ、黒川の怪我の程度が、はっきりしないので、房枝は心配であった。今、黒川にどうかなってしまわれると、せっかく息をふきかえした、新興ミマツ曲馬団の全員が、また路頭《ろとう》に迷わなければならない。だから、房枝は、黒川をまもり、そして彼に、一刻も早く医師の手当をうけさせたいと思ったのである。
 そのために、彼女は、心ならずも、帆村のそばを車で通りすぎてしまったのだ。もっとも彼女は、運転台のターネフに向かい、車をとめてくれるようにとこえをかけたが、ターネフはそれがわからないらしく、車は、ずんずんとスピードをあげていったのだった。
 それに、そばにいるニーナが、
「お嬢さま。しんぱいいりません。よいドクトルをしっていますから、その人にみせましょう。わたくしが、手落《ておち》なくしますから、しんぱいいりません」
 と、しきりに房枝をなぐさめたのであった。
「ええ、どうか、一刻も早く、医師にみせていただきたいのです。これは、あたくしたちの大事な主人ですから」
「わかります。よくわかります」
 美しいニーナは、うなずいた。
 自動車は、附近の病院の門をたたくかと思っていたのに、そのままずんずん山の手の方へ走って、やがて今もいったように、大きな洋館の、玄関についてしまったのである。
 自動車の警笛《けいてき》がきこえたとみえて、玄関の扉があき、中からきちんと身なりをととのえた日本人のボーイが、とんででてきた。
「さあ、ここが、わたくしの邸《やしき》です。おはいりください」
 ニーナは、ひじょうな愛嬌《あいきょう》をみせて、房枝にいった。
 ターネフは、運転台からとび下りるようにして、ボーイになにかを叫んだ。
 ボーイは、それをきくと、あわてて玄関の中へとびこんだ。彼は、またすぐ、中からとびだしてきた。彼のうしろには、たくましい数名の外人ボーイがしたがっていた。そして自動車の扉を開いて、まだ呻《うな》っている黒川団長のからだを、皆して、しずかに担《かつ》ぎだしたのであった。
 房枝も、そのあとにしたがって、玄関をはいっていった。
 中は、見事にかざられた大広間であった。
 ニーナは、房枝をまねいて、その隅《すみ》にある小さい卓子《テーブル》へ案内した。
 その卓子のうえには、電話機がのっていた。ニーナは、受話器をとって、廻転盤《ダイヤル》をまわした。
 しばらくして、相手が出てきた。ニーナは、英語で早口に喋る。ドクトル・ワイコフという名が、しきりに出てくる。
「では、すぐにお出でをお願いしてよ。こっちは、皆でしんぱいしているのですからね。えっ、それはそうよ。ふふふふ。とにかく、おいでをお待ちしていますわ」
 房枝は、巡業先がメキシコであったので、英語は少しわかっていた。だから、ニーナの電話も、だいたい了解した。ドクトル・ワイコフがすぐ診察にきてくれることがわかった。だが(ええ、それはそうよ、ふふふふ)とは何のことであろうか。ちょっと気になる語であった。
(ゆだんはならない!)
 房枝はそう思った。
 ドクトル・ワイコフが現れたのは、それからものの十分とたたない後のことだった。長身のひじょうに貴族的な顔をもった医師だった。
 彼は、長椅子の上に寝ている黒川のそばに、自分のもってきたカバンを開き、診察にとりかかった。
「うん、ちょっと重傷だが、今手当をして、しばらく安静にさせとけばいいでしょう。お湯がわいているでしょうね。早くもってきてください。ちょっと手当をしておきますから」
 房枝は、黒川の後頭部の傷を見ていると、なんだか気が遠くなりかけた。こんなことではいけないと思い、なんとかして、黒川の手当の終るまで、がんばろうと、自分の気をはげましたのであった。手当はなかなかすまなかった。ニーナは、房枝のそばへきて、彼女を横から抱えながら、大丈夫よ、大丈夫よと、しきりになぐさめた。そのころになって房枝は、やっと雷洋丸でこのニーナと会ったことを思い出したのであった。

   悩《なや》ましい花園《はなぞの》

 房枝は、その夜をニーナの邸ですごした。
 黒川の傷は、かなり重く、熱が高くて、うわごとをいいつづけだった。だから房枝は、ニーナやドクトル・ワイコフの意見にしたがって、黒川をそのままそこに寝かせておくほかないと思った。
 ニーナとワイコフ医師とは、いくたびか、その広間へ下りてきて、親切にも、黒川を見守り、そしてまた房枝をなぐさめた。師父ターネフだけは、寝室へはいったらしく、はじめにちょっと顔を出しただけで、あとは現れなかった。
(ずいぶん親切な人たちだわ)
 と、房枝は、心の中で、あつい感謝をささげた。
 房枝は、なにもしらない純情な少女だったのである。かりそめにも、このようなニーナたちの親切の中に、おそろしい棘《とげ》がかくされていようなどとは、思ってもみなかった。お人形のように純情なことは、いいことである。しかし、そういう場合に、おそろしい棘のあることを気づかないでいることは、いいことではない。
 夜は明けはなれた。
 カーテンをひくと消毒薬でむんむんする室内のにごった空気が外へ出ていって、入れかわりに、サイダーのようにうまい朝の外の空気が入ってきた。
「ああ、房枝さん。あなた、おつかれでしょうねえ」
 ニーナ嬢が、いつの間にか階段を下りて、房枝の横に立っていた。房枝は、外に見えるうつくしい花壇《かだん》にながめ入っていたので、ニーナの近づいたのを知らなかった。
 房枝は、しみじみと礼をいった。黒川は、熱は高いが、幸いにも今ぐっすりと、ねこんでいるのだった。
「ああ、そう」
 と、ニーナはうなずいて、
「じゃあ、あの花壇のあるところへいってみません? いろいろとうつくしい花や、香《かおり》のいい花が、たくさんあるのです。あなた、花おきらいですか」
「いいえ、花はだいすきですの」
「ああそう。では、これからいって、あなたの好きな花を剪《き》ってあげましょう。あなた、どんな花、好《この》みますか」
「さあ、好きな花は、たくさんございますわ」
 房枝は、黒川がよくねむっているのに安心して、ニーナ嬢とつれだち、花壇へ下りた。全くすばらしい花園だ。小学校の運動場ほどの大きさのなだらかな斜面が、芝生と花でうずめられているのだった。朝陽《あさひ》をあびて花は赤、青、黄、紫の色とりどりのうつくしさで、いたいほど目にしみた。そしてえもいわれぬ香が、そこら中にただよい、まるで天国へ来たような気がするのであった。
「まあ、うつくしい」
 房枝は、徹夜の看護に充血《じゅうけつ》した目を、まぶしそうにしばたたきながらいった。
「ここにある花の種類は、七百種ぐらいあります」
「え、七百種。ずいぶん、種類が多いのですわねえ」
「その中に、メキシコにあって、日本にない花が、三百種ぐらいもまじっています。なかなか苦心して持ってきました」
「そういえば、あたくしがメキシコでお馴染《なじみ》になった花、名前はなんというのかしりませんけれど、その花があそこに咲いていますわ」
「じゃあ、あれをさしあげましょう」
「いいえ、花はあのままにしておいた方がいいんですの。きっていただかない方がいいわ」
 と、房枝は、上気した頬を左右にふって、辞退した。
「えんりょなさらないでよ」
「いいえ、その方がいいのです」
 と、房枝はニーナの好意を謝《しゃ》したが、そのとき気がついて、
「あーら、このいい香は、なんでしょ。あら、バラの匂《におい》だわ。まあ、これは大したバラ畠ですわね」
 房枝は、とつぜん
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