がかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
 と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字《もんじ》にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所《じしょ》は、あそこに見える空地なんだが」
 と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村《いいむら》という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘《どわす》れしてしまったぞ」
 と、新団長は、溜息《ためいき》をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
 そういって、黒川は路傍《ろぼう》に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。

   工場地帯

 房枝は、ひとりになって、路傍《ろぼう》に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろ
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