でもあろうか、影も形も見えなかった。
「いいえ、あたくしが不注意だったのでございますのよ」
と、その婦人は、ハンケチを出して、羽織にかかった泥水の上をそっとおさえたが、二、三箇所、それをすると、もうハンケチは、まっ黒になってしまった。全身の泥水は、まだそのままであるように見える。ずいぶん、ひどくかかったものだ。
この婦人は、誰あろう。有名な彦田博士の夫人道子であった。その昔、発明マニアといわれた若き学徒彦田氏を助け、苦労のどん底を、ともかくも切りぬけ、そして今日の輝かしい彦田博士を世に出したお手柄の賢夫人《けんふじん》だった。道子夫人はこのあたりに用事があって、今、かえり道であったのだ。
そんな有名な夫人だとは、房枝は、すこしもしらなかった。房枝は、ただもうこの婦人が気の毒になって、自分のハンケチをハンドバックから出すと、道子夫人の羽織のうえの泥を吸いとりはじめた。が、このハンケチも、すぐまっ黒になってしまった。
「ああどうぞ、もう、そのままで」
と、道子夫人は、つつましく、恐縮《きょうしゅく》して、房枝の好意を辞退した。
「でも、たいへんでございますわ」
「いいえ、わたくしが
前へ
次へ
全217ページ中106ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング