って、ミマツ曲馬団の名をつぐこととなった。
「さあ、それでは、俺《おれ》と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳《いしょう》の方も東京で算段《さんだん》してこよう」
「おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂《うわさ》だぞ」
「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」
 極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。

   東京へ

 房枝たちが養われている新興ミマツ曲馬団が、今後うまく立ちなおって、よい興行成績をあげるようになるかどうか、それは団員たちにとって、生きるか死ぬかの大問題だった。
 吉凶《きっきょう》いずれか、いわば、その運だめしともいえる城南の興行の瀬ぶみに、房枝は新団長の黒川とつれだち、横浜をあとに、東京へ出かけたのであった。
 これから先、はたして団員二十余名が、うまく口すぎが出来ていくであろうかと思えば、この下検分《したけんぶん》の使の責任は重く、目の前が暗くなる思いがするのであったが、それでも房枝は、メキシコにいるときから、いくたびとなく夢にみていたなつかしい東京の土地を踏むのだと思うと、やっぱりうれしさの方がこみあげて来た。
「あら、もう、ここは東京なのね」
 省線電車《しょうせんでんしゃ》が、川崎を出て長い鉄橋を北へ越えると、そこはもう東京になっていた。房枝は、窓越しに、工場ばかり見える町の風景に、なつかしい瞳を走らせた。
 新団長の黒川は、ふーんと、生返事をしたばかりで、電車の中にぶらさがっているハイキングの広告に、注意をうばわれていた。
(このごろのお客さんは、みんなハイキングにいってしまって、曲馬団なんかに、ふりむかないのじゃないかなあ。そうなりゃ、飯の食いあげだ)
 と、この新団長には、車内の広告が、はなはだ心配のたねとなった。
 電車が蒲田《かまた》駅につくと、二人は、あわてて下りた。
 駅前にはバスがあるのに、黒川はそれに乗ろうとせず、てくてくと歩きだした。たとえ一円でも、これから先にはっきりしたあてのない今のミマツ曲馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。
 二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色《ねずみいろ》の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉《てっぷん》のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。
 だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋《むねわりながや》が、ことの外《ほか》なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。
(こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)
 そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂《におい》もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地《ろじ》の奥からあらわれて、まぶしそうに、通《とおり》をながめる。飴屋《あめや》さんが、太鼓《たいこ》を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。
 どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
 と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字《もんじ》にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所《じしょ》は、あそこに見える空地なんだが」
 と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村《いいむら》という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘《どわす》れしてしまったぞ」
 と、新団長は、溜息《ためいき》をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
 そういって、黒川は路傍《ろぼう》に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。

   工場地帯

 房枝は、ひとりになって、路傍《ろぼう》に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろ
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