と見て通る。なにしろ、このへんに見なれない垢《あか》ぬけのした洋装をしている房枝だったから、特に目に立ったのであろう。
房枝は、人に見られることは平気の職業を持っていたが、それは、曲馬団の舞台へあがったときのことで、こうして今、路傍に立っているところを、じろじろ見つめられるのは、はずかしかった。
しぜん、房枝は、道の方に背を向け、はるかに見える極東薬品工場の方を、ぼんやりと見つめていた。
その工場には、三本の、たくましい煙突《えんとつ》が立っていて、むくむくと黒い煙をはいていた。その煙突を見、まっ白に塗られた工場を見ていると、房枝は、なんとはなしに、それが雷洋丸《らいようまる》の生まれかわりのような気がしてきた。
ああ、思えば、ふしぎな運命に、ひきずられてきたものである。雷洋丸が爆沈せられたあと、怒涛《どとう》荒《あ》れくるう、あのような大洋から、よくぞ救い出されたものである。
「ああ帆村荘六《ほむらそうろく》さまは、どうしていらっしゃるだろう?」
房枝は、しばらく忘れていた、たのもしい人のことを、ここでまた新しく思い出した。
そうだ、たのもしい青年探偵、帆村荘六! せめて、あの人が、今、自分のそばにいてくれれば、こうも不安な、そして孤独な気持にもならないですむだろう。曾呂利本馬の芸名で一座に戻ってくることは、もちろん不可能であろうけれど、せめて、房枝たちのため、相談役にでもなってくれれば、ずいぶん皆は、よろこぶであろう。その中でも房枝自身は、他のだれよりもうれしいのであるが。
帆村荘六が、奇蹟的に一命をとりとめて、無事帰りついたことは、新聞で知った。房枝はそののち、なんとかして帆村に会いたいものと、思いつづけたのであったけれど、その帆村の住所を忘れてしまった。だから、手紙を出したくても、出すことができないのだった。
そういう場合には、帆村の記事を出した、新聞社へ頼めば、たいてい、親切に先方の住所を調べ出して連絡してくれるのであるが、房枝は、まだ世間なれしないため、そういう方法のあることを知らなかった。
「ああ、帆村さまにお会いしたいわ。たった一度きりでいいから」
房枝が、そんなことを、しきりに考えているとき、彼女のうしろを一台の自動車が走りぬけた。そして、そのすこし先で、車は水たまりにとびこんで、ひどい音をたてて水をはねかせた。
「まあ、しつれいね」
房枝は、あっといって、自分の服をあらためてみたが、いいあんばいに、べつにどこにも、泥水《どろみず》がとんでいなかった。
その自動車はそのまま、どんどん走っていったが、しばらくいくと、辻《つじ》を左にまがって、極東薬品の塀《へい》にそって進んでいった。そうなると、車が横になって、車内に一人の紳士が、よほどいそがしいと見えて、新聞をひろげて読んでいるのが見えた。
房枝は、にくらしげに、その自動車の行方《ゆきさき》を見つめていた。
「あら、あの自動車、あの工場へ入っていったわ」
房枝は、一大発見でもしたように、思わず声をたてた。だが、工場の玄関の前にとまったその自動車の中から、新聞をたたみながら降り立った紳士が、まさか房枝の会いたく思っている青年探偵帆村荘六であることには、気がつかなかった。なぜといって、二人の間にはかなりの距離があったのである。
もしも、あのとき、房枝が道の方に背を向けていなかったら、また、帆村荘六が、車内で新聞などを読んでいなかったら、二人のうちのどっちかが、
(おお、房枝さんだ)
(あら、帆村さん!)
と、こえをかけたであろうものを、運命の神は、時に、このようにいじわるなものである。
黒川は、どこまでいったのか、なかなか房枝のところへは帰ってこなかった。
「どうしたんでしょうね、新団長は」
房枝が、すこし不安になって、あたりを、きょろきょろ見まわしていると、そのとき、向こうの方から、一台の三輪車が、いきおいよく、こっちへ向けてはしってきた。
房枝はさっきの自動車にこりて、こんどは道の真中《まんなか》の水たまりよりも、はるかに後に、はなれていた。そして、ふと、さっきの水たまりのところに目をやった房枝は、はっと息をのんだ。
「ああ、たいへんだわ、あの方」
ちょうど、その水たまりのそばを、小さな風呂敷包をもった上品な中年の婦人が、なんにも知らないで、こっちへ向いて通りかかっているのだった。
「ああ、あぶない、たいへんですから、わきへおよりなさーい」
そのままいれば、婦人の晴着《はれぎ》は、三輪車のため、ざぶり泥水をかけられ、めちゃくちゃになってしまう。房枝は、自分の身を忘れ、大ごえをあげて、危険せまる婦人の方へかけていった。
だが、ざんねんながら、もうそれは間にあわなかった。
「ああッ!」と、房枝は、両手で目をおおった。
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