手はつくしてみます」
「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜《よ》の目もねむられませんからねえ」
 黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。
「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使《つかい》してもらいますから、よろしく」
 長官は、ことばを添《そ》えた。

   捨子《すてご》は悲し

 話はかわって、その後の房枝《ふさえ》はどうなったであろうか。
 あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。
 彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国《ここく》の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。
 ここで、彼女は、同胞《どうほう》のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。
 手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情《なさけ》が身にしみる。
 だが、その一方において、外事課《がいじか》の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。
「あなたの原籍《げんせき》は?」
 係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。
「さあ」
 房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。
 松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我《おおけが》をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。
「原籍をいいなさい」
「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」
「捨子だって、君がかい」
 係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。
「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」
 係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。
 そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。
「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」
「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」
「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」
「その証明がつかなければ、ここは通せない」
「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」
 それから房枝は、いろいろと願って、生残《いきのこ》りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。
 けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。
「常に、居所《いどころ》を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。よろしいか」
 房枝は、今日ほど自分が捨子であることを、もの悲しく思ったことはない。原籍がわからないために、こんな疑いをうけるのである。
(ああ、お母さま、お父さま。房枝は、今、こんなに悲しんでいます。ああ)
 彼女は、胸に手をおいて、心の中ではげしく、まだ見ぬ父母に訴《うった》えた。
 この房枝のかなしみを、いつの日、誰が解《と》いてくれることやら。
 やっと解放された房枝たちミマツ曲馬団員は、一まず横浜のきたない旅館に落ちついた。これから、一同の身のふり方を、いかにつけるのかの、相談が始まった。けっきょく、他に食べる目当もない一同だったから、人数は半分以下にへったが、ともかくも、空地《あきち》にむしろを吊ってでも、興行をつづけることにきめた。そしてその第一興行地を、今生産事業で賑《にぎ》わっている東京の城南《じょうなん》方面にえらび、どうなるかわからないが、出来るだけのことをやってみようということになった。
 城南方面を第一興行地にしようじゃないかといいだしたのは、調馬師《ちょうばし》の黒川だった。彼は松ヶ谷団長にかわ
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